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ソビエト連邦の外交関係から見た中華人民共和国
第二次大戦が終わると、ドイツや日本の戦後処理やヨーロッパ地域の経済復興などでの対立が顕在化し、新たに発足した国際連合、特にその安全保障理事会などを舞台にして、両国関係は再び悪化した。チャーチルが「鉄のカーテン」と呼んだヨーロッパの東西分断は、1947年3月にアメリカがトルーマン・ドクトリンを発表して反共主義政権のトルコとギリシャに大規模援助を行い、同年6月にアメリカが提案したマーシャル・プランをソ連が拒否した事でより明確になり、1948年のチェコスロヴァキア2月クーデターや同年4月のベルリン封鎖開始で冷戦の開始が決定的になった。これはアメリカの駐ソ代理大使だったジョージ・ケナンが提唱した「対ソ封じ込め政策」を根本にし、アメリカは西ドイツや日本での占領方針の重点を非軍事化から反共主義へと切り替え始めた。しかし、1949年には東アジア政策の最重要国だった中国で中華民国政府(国民政府)が台湾への逃亡を迫られ、中国本土では中華人民共和国が成立して、封じ込め政策は大きな見直しが迫られた。また、同年にソ連が原爆保有を宣言した事で、両国は終わりのない核兵器開発競争に突入していった。(ソビエト連邦の外交関係 フレッシュアイペディアより)
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朝鮮統一問題から見た中華人民共和国
1950年6月25日に北朝鮮は朝鮮統一を目指して朝鮮戦争を引き起こし、6月28日に朝鮮人民軍は大韓民国の首都ソウルを攻略、9月まで怒涛の南進を続け、李承晩政権を臨時首都釜山にまで追い詰めたものの、国連軍司令官のダグラス・マッカーサー元帥が仁川上陸作戦を実施し、首都ソウルを奪還すると形勢は逆転し、李承晩大統領は9月29日にソウルに遷都した。その後、ソ連と中華人民共和国を中心とする共産圏の介入を危惧する立場から朝鮮戦争開戦前の南北の国境だった38度線を北上するか38度線で停止した後に政治決着を図るかが国連軍やアメリカ合衆国内部で問題になったものの、大韓民国の李承晩大統領は「北進統一」を果たすために丁一権参謀総長に大韓民国国軍の38度線突破を命じ、この大韓民国による独断突破を国連軍のマッカーサー司令官が追認する形で38度線北上が進んだ。アメリカ軍と大韓民国国軍を中心とする国連軍は10月11日に元山を攻略、10月19日に平壌に入城、10月26日に林富澤大佐指揮下の大韓民国陸軍第6師団第7連隊は楚山を攻略し、遂に中朝国境の鴨緑江にまで到達した。(朝鮮統一問題 フレッシュアイペディアより)