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IWGPから見た中邑真輔
1997年に橋本真也保持の際にIWGPヘビー級王座のチャンピオンベルトは2代目になり(初代IWGPヘビー級王座のチャンピオンベルトは創設者のアントニオ猪木に寄贈)、その後それに合わせて初代IWGPジュニアヘビー級王座と初代IWGPタッグ王座の2つのチャンピオンベルトを新調してIWGPジュニアタッグ王座が創立され、チャンピオンベルトの巻く部分だけ統一デザインになる。2005年10月8日からIWGPヘビー級王座のチャンピオンベルトは3代目になったが保持していたブロック・レスナーが防衛戦を行わないままアメリカに持ち帰ってしまったため、しばらくは2代目IWGPヘビー級王座のチャンピオンベルトを代用。2007年6月29日に両国国技館で開催したIGF旗揚げ戦でブロック・レスナーがカート・アングルと非公式のIWGPヘビー級選手権試合を行い、カート・アングルが3代目IWGPヘビー級王座を獲得。2008年2月17日に新日本プロレス両国国技館大会でカート・アングルが正式王者の中邑真輔と「IWGPヘビー級選手権試合 ベルト統一戦」が行われ、中邑真輔が勝利して4代目IWGPヘビー級王座のチャンピオンベルトが誕生(2代目IWGPヘビー級王座は、そのチャンピオンベルトを初めて保持した橋本真也の家族に寄贈)。その後それに合わせて2代目IWGPジュニアヘビー級王座、2代目IWGPタッグ王座、初代IWGPジュニアタッグ王座も新調。(IWGP フレッシュアイペディアより)
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RISE (プロレス)から見た中邑真輔
前身は蝶野正洋率いるブラック・ニュー・ジャパンで、2007年に蝶野が長州力、獣神サンダー・ライガーらと共にレジェンド軍を結成し、離脱。中邑真輔を中心に残されたメンバーを中心にユニット名をRISE(Real International Super Eliteの略)と改名する。(RISE (プロレス) フレッシュアイペディアより)
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ファーガル・デヴィットから見た中邑真輔
2009年、田口隆祐とのタッグチーム"Apollo 55"を結成し、モーターシティ・マシンガンズ(アレックス・シェリー・クリス・セイビン組)を破って第24代Jr.タッグ王座に戴冠。11月に行われたG1 TAG LEAGUEではApollo 55でエントリーし、Bブロックを2位で通過。準決勝で中邑真輔、矢野通組を破り決勝へ進出。決勝でジャイアント・バーナード、カール・アンダーソンに敗れたが、準優勝の成績を残した。(ファーガル・デヴィット フレッシュアイペディアより)
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カール・アンダーソン (プロレスラー)から見た中邑真輔
以降、複数のNWA系のローカル団体に出場して、キャリアを積み重ねていた所、新日本プロレスLA道場の関係者にスカウトされ、2006年1月よりロサンゼルスに拠点を移す。この頃、類似の経歴(米国ローカル団体からのステップアップ)でロス生活をスタートさせたプリンス・デヴィットや、米国遠征に来ていた中邑真輔、ロス道場でトレーニングしていたケンドー・カシンなどと面識をもつ。(カール・アンダーソン (プロレスラー) フレッシュアイペディアより)
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IWGPインターコンチネンタル王座から見た中邑真輔
2012年7月12日、山形大会にて中邑真輔が3代目王者の後藤洋央紀を倒し4代目王者に君臨する。中邑は本王座のベルトのデザインを酷評し、新日本プロレスに対してベルトの作り直しを要求した(後述)。中邑は新たなベルトと共に王座の防衛を重ねていき、本王座は中邑のイメージが定着していった。2012年から2015年までの東京ドーム大会では本王座のタイトルマッチがIWGPヘビー級王座と共にダブルメインイベント設定され、特に2014年はIWGPヘビー級王座戦を退けて本王座が最終試合に設定された。(IWGPインターコンチネンタル王座 フレッシュアイペディアより)
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マネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチから見た中邑真輔
男性レスラーによるマネー・イン・ザ・バンク戦では中邑真輔が日本人レスラーとして最初の参加者になったが、入場中にバロン・コービンの襲撃を受け一時離脱。終盤に復帰してAJスタイルズとラダー上で一騎打ちを行うもコービンに倒され、そのままコービンが勝者となった。(マネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチ フレッシュアイペディアより)
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プロレスリング・ノアから見た中邑真輔
その後、2008年8月26日に行われた新日本プロレスの主催によるレッドシューズ海野レフェリー20周年記念興行において、三沢、仲田両名がお祝いVTRで登場した。興行後の海野レフェリーの会見でノア勢の参戦も予定されていたことが明かされている。2008年9月6日、日本武道館大会の会場を高橋裕二郎と内藤哲也のNO LIMITが視察した。GHCジュニアタッグへの挑戦を表明し2008年9月14日のノアの大会のダーク・マッチに出場し勝利を収め、9月27日にタイトルに挑戦したが敗北した。また、中邑真輔らによる2009年1月4日新日本東京ドーム大会への対戦要請に呼応して、三沢、杉浦、秋山、佐野が出場したが実は後にドーム参戦はノアからのオファーだったことが発覚した。その後のノア興行に中邑、ミラノコレクションA.T.、天山広吉、金本浩二、ライガーが参加した。さらに2009年に開催されたベスト・オブ・ザ・スーパージュニアにノアの所属選手として菊地、青木の2名が初参加している。(プロレスリング・ノア フレッシュアイペディアより)