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中津万象園から見た丸亀城
面積5ヘクタールの池泉回遊式大名庭園は、貞享5年(1688年)に丸亀藩主である京極高豊の命により、丸亀城の城下町に近い中津の浜に面して造られた。庭園名は森羅万象に由来するとされる。京極氏の故郷である近江国の琵琶湖をかたどった八景池が掘られ、帆、雁、雪、雨、鐘、晴嵐、月、夕映と近江八景になぞらえ名付けられた島々が浮かび、橋で巡る事ができる。それとは別に朱塗りの邀月橋も池をまたいで掛かり、園内に彩りを添えている。池に面しては、潮の満ち引きが見られたという観潮楼、その近くには母屋が茶庭に面して建ち、樹齢六百年と言われ傘に似た形を持つ大傘松が広がる。これらの門として、くぐると長生きすると言われる松寿関が設けられている。(中津万象園 フレッシュアイペディアより)
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京極高豊から見た丸亀城
初代藩主・京極高和の次男。1662年(寛文2年)に父の死により家督を継いだ。寛文4年(1664年)、曾祖母常高院の所領であった近江蒲生郡内の1400余石を加増され、このうち3000石を義兄高房へ分知した。寛文12年(1672年)、幕府に請願して近江の所領と播磨国2村を交換し、同地にあり京極氏歴代の菩提寺であった近江清滝寺を復興、付近に散在していた墓碑を一カ所に集めて整理し三重塔を寄進し歴代当主の墓を集めて並べ、寺院名を父の法名に基づき徳源院と改めた。この三重塔は現在、滋賀県の指定文化財に指定されている。延宝2年(1674年)、桜田久保町に上屋敷を建設し、駿河台狩野派の絵師田中八兵衛に鳳凰、牡丹、菊、四季山水、吉野竜田などを題材にする華やかな屏風類を製作させた。高豊は絵画に非常に堪能であったといい、野々村仁清にこの屏風絵をそのまま描いた壷を発注した文書が残り、その芸術的才能の片鱗をうかがわせる。仁清窯と京極家の関わりは高豊に始まるという。延宝4年(1676年)に丸亀城に移る。貞享5年(1688年)には城下町近くの下金倉村に大名庭園を築き万象園と名付ける。京極氏の故郷である近江の琵琶湖を模した池を中央に置き近江八景を配したこの庭園は日本三大海浜庭園の一つに数えられる。この間延宝9年(1681年)に叙任している。(京極高豊 フレッシュアイペディアより)