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田部文一郎から見た丸紅
低成長時代の対応に就任間もなく、経済に対する危機感をいち早く深め「非常事態宣言」なるものを出し社内に徹底させた。当時は第一次オイルショックで物価が暴騰し、商社性悪説が蔓延。また、また韓国地下鉄の国際入札の斡旋をしたと国会で尋問された。1975年(昭和50年)秋には、これまでタブーとされていた武器輸出の検討を提唱、時の人になった。これがきっかけで、通商産業省は「準武器」輸出は認める方針を打ち出したが、野党の反発などで次第に政治論争の色彩を帯びた。ところが1976年(昭和51年)に入ってロッキード事件が起こり、こうした論争は吹き飛ばされた。さらに高度成長期の限度を越える土地投機や事業拡大がオイルショックで一気に不況。多大な融資を行っていた永大産業や興人、丸紅と共同で手掛けていたVANジャケットなどが相次ぎ倒産。不良債権は2000億円に上るといわれたが、これの後始末に辣腕ぶりを発揮し「将来に悪い債権は絶対に残すまい」と在任中に償却、整理した。1980年(昭和55年)会長、1986年(昭和61年)相談役、1998年(平成10年)特別顧問に退いた。(田部文一郎 フレッシュアイペディアより)
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渡部正郎から見た丸紅
山形県米沢市出身。1945年東京帝国大学法学部卒業。同年内務省に入り、警察大学校教授、在イタリア大使館一等書記官、群馬、愛知各県警本部長などを務める。1974年内閣広報室長を務め、以後、田中、三木、福田の各内閣の内閣調査室長を務めた。1977年に退官。1979年(昭和54年)、第35回衆議院議員総選挙に山形県第1区から無所属(民社党推薦)で立候補して当選した。その後、自由民主党に入党し、1980年(昭和55年)の第36回衆議院議員総選挙には自由民主党公認で山形県第1区から立候補し落選した。その後司法修習を受け、弁護士資格を取得、1984年のロッキード事件丸紅ルートの控訴審で田中角栄の弁護人を務め、特許事務所を開いた。(渡部正郎 フレッシュアイペディアより)
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