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伊藤長兵衛 (七代)から見た丸紅
近江国犬上郡河瀬村犬方(現・滋賀県彦根市犬方町)の若林又右衛門の次男として生まれる。幼名は長次郎。16歳で伊藤長兵衛商店に丁稚奉公に入る。22歳で六代目伊藤長兵衛の養子となり、1892年(明治25年)に長兵衛の次女やすと結婚して、翌年七代目伊藤長兵衛を襲名した。滋賀県内外への商売が結実して伊藤長兵衛商店は拡大していき、1921年(大正10年)には伊藤忠商店を合併し、丸紅商店を設立して初代社長に就任した。これが現在の丸紅の前身にあたる。(伊藤長兵衛 (七代) フレッシュアイペディアより)
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韓国の茶から見た丸紅
1960年代からの紅茶生産に代わって1970年代半ばには緑茶の生産が本格的に始まり、1976年に柿やサツマイモの葉を混ぜた粗悪な紅茶が出回って消費が落ち込んだことによって、さらに生産移行が進んだ。同時期には1972年の日中国交正常化を受けて日本と台湾の国交が断絶し、台湾に代わる輸入先として丸紅が1978年まで韓国から緑茶を輸入していた。また、1970年代から茶人らが組織を設立して草衣の住居跡の復元など茶文化の発信に取り組んだほか、文化広報部や保健福祉部など政府の部門も1980年代から茶道の振興(「茶道」参照)や国産茶普及などの活動を始めた。(韓国の茶 フレッシュアイペディアより)
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浦茂から見た丸紅
航空自衛隊の設立のため、三好康之を中心とする陸軍航空関係者の空軍研究に参加する。独立国となる以上軍備が必要であり軍備の中には独立空軍を入れなければならないというものであり、翼のついたものは全て集め、本隊と陸海協力隊の二本立てとして必要に応じて陸海に機材と兵員を派遣する構想であった。海軍は新海軍再建に傾倒していたが、1952年7月末から合流し陸海合同研究が始まる。。1954年航空自衛隊の発足と共に航空幕僚監部装備第1課長に就任。1957年次期主力戦闘機調査のためアメリカに派遣される。1959年源田実FX調査団により導入が決定したロッキードF-104準備室長として導入準備と予算交渉を担当する(ロッキード社の日本代理店は丸紅)。(浦茂 フレッシュアイペディアより)
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