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セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンから見た五稜郭
その後、野砲の射程が延びたことにより、中心都市そのものの周囲を稜堡式の城郭で覆うのではなく、中心都市から一定距離を置いた地点に小型のヴォーバン式要塞ともいえる堡塁を複数築き、そのネットワークをもって中心都市を防衛するという考え方が主流となった。日本においては、江戸と台場はこの関係にあると考えられるが、幕府の予算不足のためネットワークは未完成に終わった。函館と五稜郭もこの関係にあるという考え方もあるが、五稜郭はこの目的の城郭としては古い形式である(その一方で後述する塹壕線の原型が早くも持ち込まれており、戊辰戦争は西洋における新旧の戦法が混在する状況にあった)。(セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン フレッシュアイペディアより)
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小出秀実から見た五稜郭
実子がない普請役の1500石の旗本小出英永の両養子として嘉永5年(1852年)7月25日に小出氏の家督を相続、同年に小普請入り、翌嘉永6年(1853年)5月6日に小姓組に移った。昌平坂学問所に学び、講武所の銃隊調練の教導資格を獲得、文久元年(1861年)10月1日に使番、12月7日に目付に登用され、翌文久2年(1862年)9月7日に箱館奉行に任命される。箱館奉行時代、箱館奉行所の五稜郭内移転やアイヌ人骨盗骨事件でイギリスとの談判が幕府に評価され、慶応2年(1866年)8月26日に外国奉行も兼任、10月に樺太国境画定交渉の遺露使節団の代表正使としてロシアへ派遣された。副使は後に最後の北町奉行となる石川利政であり、箱館に残った相役の杉浦誠は最後の箱館奉行となる。(小出秀実 フレッシュアイペディアより)
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ウォー・シミュレーションゲームから見た五稜郭
ドナルド・ブースのデザイン。函館戦争は、五稜郭での土方歳三の最後の突撃が人気があり、いくつかのゲームが出ているが戦力差が大きいので競技ゲームとしては成功しにくい。本作は、変形のカードドリブンシステムを利用し、五稜郭から遠い地点に上陸する新政府軍が複数の進撃路にどうリソースを配分するかの駆け引きに焦点を当てて興味深くプレイできる。(ウォー・シミュレーションゲーム フレッシュアイペディアより)