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大岡助右衛門から見た五稜郭
武蔵国久良岐郡大岡村(現神奈川県横浜市南区大岡 )の農家に生まれる。長じて江戸に移り、大工を職業とした。1858年に建設業者・中川源左衛門(初代)・傳蔵父子が、蝦夷地箱館の五稜郭の建設を請け負うとその大工頭となって箱館に移る。その後次第に抜擢され、中川組の工事肝煎となり、数多くの工事を担当した。1868年に源左衛門が箱館を去ると、山本猪之助・金子三九郎らとともに、中川組の中心人物として活躍した。また、同年の箱館戦争で、榎本武揚率いる旧幕府軍の遺体が各地に散乱すると、地元の侠客・柳川熊吉らとともに新政府の禁令に屈せず拾集し、箱館の実行寺に埋葬した。(大岡助右衛門 フレッシュアイペディアより)
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渡島国から見た五稜郭
江戸時代後期の享和2年2月、江戸幕府が箱館に蝦夷奉行を置く。これは公議御料となっていた東蝦夷地を管轄した。同年5月蝦夷奉行を箱館奉行に改称。文化4年、渡島国域や西蝦夷地なども公議御料とされたため松前藩は陸奥国(後の岩代国)伊達郡梁川に9千石で転封(梁川藩)、箱館奉行を松前奉行と改め松前に置いたが、文政4年公議御料となっていた渡島国域や蝦夷地などを松前藩領に復し松前氏が復帰。これに伴い松前奉行を廃した。弘化3年、亀田郡域東端の恵山で水蒸気爆発に伴う泥流が発生し犠牲者が出ている。安政元年には外国船に対する警固のため松前藩によって上磯郡域に戸切地陣屋が築かれたが、安政2年箱館開港などの影響で、渡島国域の乙部村以北と木古内村以東は再び公議御料とされ箱館に箱館奉行が置かれた。奉行「御預所」の警固は、爾志郡の乙部村以北は津軽藩、上磯郡と亀田郡西部が松前藩、亀田郡東部と茅部郡は南部藩が行った。その翌年、再び駒ケ岳が火砕流を伴う噴火。蝦夷松前限り通用であった箱館通宝も発行された。また、安政6?7年には見市温泉が発見されている。元治元年、箱館奉行所を五稜郭に移した。(渡島国 フレッシュアイペディアより)
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古川正雄から見た五稜郭
1868年(慶応4年)慶應義塾初代塾長に就任。しかし古川は、戦いを好まない諭吉が止めるも聞かず、江戸から脱走し旧幕府軍・榎本軍に加わる。古川家が徳川家の旗本であったのがその理由とされる。慶應4年(1868年)6月、「長崎丸」艦長として榎本武揚艦隊本隊に先駆けて江戸湾を脱出。明治維新、戊辰戦争時には榎本武揚らと共に函館五稜郭に立て篭り新政府軍に抵抗。「軍艦高雄」(第二回天)の艦長となる。1869年(明治2年)には高雄艦長として宮古湾海戦に榎本武揚、土方歳三らと参加するも途中暴風雨に遭い機関を損傷、速度が上がらず「ストーンウォール号(甲鉄)奪還作戦」の奇襲には参加出来ずに追撃され、田野畑村沖羅賀浜(現在の岩手県下閉伊郡)へ座礁させ自沈。高雄を捨て総員退去を命じ、上陸後降伏し新政府軍に捕えられ、東京に護送されて厳しい取り調べを受け、約一年間拘束された。(古川正雄 フレッシュアイペディアより)
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柳川熊吉から見た五稜郭
浅草料亭の息子に生まれる。新門辰五郎が幅を利かせていた浅草で顔役となり、幕臣などとも交流があったと言われる。安政3年(1856年)、五稜郭築城のため自ら人員を率いて箱館へ渡り築城動員を補佐。その後、江戸流柳川鍋を商売として生活していたが、箱館戦争が勃発し、敗北して賊軍とされた旧幕府軍の遺体が埋葬を許されずに箱館市中に放置されると言う惨状に堪えられず、実行寺住職・松尾日隆、大工棟梁・大岡助右衛門と相談し子分たちに遺体を回収させ、実行寺・称名寺・浄玄寺に仮埋葬した。新政府軍に捕らわれ死刑宣告を受けたが、軍監田島圭蔵の助命により釈放された。(柳川熊吉 フレッシュアイペディアより)