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  • 伊庭八郎

    伊庭八郎から見た五稜郭五稜郭

    箱館に到着後、旧幕軍役職選挙で、歩兵頭並、遊撃隊隊長となる。隻腕で有りながらも幕軍を率いて徹底抗戦を続けるが、木古内の戦いで重傷を負う。箱館病院で治療を受けるが既になす術も無く、五稜郭開城の前夜に榎本武揚の差し出したモルヒネを飲み干し自決した。享年26。命日は墓碑には5月12日と刻まれているが、田村銀之助の話から5月16日?17日とする説が有力である。墓所は東京都中野区の貞源寺。法名は秀院清誉是一居士。伊庭八郎 フレッシュアイペディアより)

  • 人見勝太郎

    人見勝太郎から見た五稜郭五稜郭

    幾万官兵海陸来 孤軍場戦骸成堆 百籌運尽至今日 好成五稜郭下苦人見勝太郎 フレッシュアイペディアより)

  • 田島圭蔵

    田島圭蔵から見た五稜郭五稜郭

    明治2年(1869年)5月、箱館総攻撃が決定的な局面を迎えると征討軍軍監を任ぜられる。黒田清隆参謀の命を受けて13日、14日と弁天台場や五稜郭へ降伏勧告を出した。弁天台場は15日に降伏を決定。しかし総裁榎本武揚は五稜郭の降伏を拒否したため攻撃を続行。18日に五稜郭もやむなく降伏する。田島圭蔵 フレッシュアイペディアより)

  • 中野梧一

    中野梧一から見た五稜郭五稜郭

    途中乗船していた美賀保丸が銚子沖で遭難し、九死に一生を得る。その後に同じく美賀保丸乗船者であった伊庭八郎ら共に新政府軍の追撃を振り切ることに成功し、仙台にて榎本武揚の艦隊と合流。翌年の箱館戦争に参戦した。明治2年(1869年)5月、五稜郭にて官軍に降伏。榎本らと共に東京に護送され投獄された。中野梧一 フレッシュアイペディアより)

  • 永井尚志

    永井尚志から見た五稜郭五稜郭

    戊辰戦争では、息子(養子)・岩之丞と共に品川を脱出し、函館の五稜郭に立て籠もり、共に戦った。永井尚志 フレッシュアイペディアより)

  • 澤太郎左衛門

    澤太郎左衛門から見た五稜郭五稜郭

    5月25日(1869年7月4日)(34歳) 同年5月17日五稜郭での降伏の報を受け、室蘭にて降伏 澤太郎左衛門 フレッシュアイペディアより)

  • 松岡磐吉

    松岡磐吉から見た五稜郭五稜郭

    元々は江川英龍の家士。安政6年(1859年)日本初の沿海測量を実施して海図を発行した。咸臨丸に乗船して渡米したことがある。甲鉄艦奪取作戦(宮古湾海戦)に参加。箱館湾海戦では旧幕府海軍の中でその時唯一軍艦の機能を果たしていた蟠竜丸の指揮を執り、明治2年(1869年)5月11日の箱館総攻撃では、圧倒的な兵力差にも関わらず新政府軍艦朝陽丸の火薬庫に砲撃を命中させて轟沈せしめた。その後、新政府軍艦から集中砲火をあび、蟠竜丸が浅瀬に乗り上げてしまったため、松岡ら乗組員は七重浜に上陸して本陣五稜郭へ撤退。同年5月18日には箱館政権(蝦夷共和国)総裁榎本武揚らと共に降伏。東京の辰の口牢獄に送られ、赦免数ヶ月前にして獄中で死亡した。松岡磐吉 フレッシュアイペディアより)

  • 松平太郎

    松平太郎から見た五稜郭五稜郭

    6月7日五稜郭開城。榎本らと東京に護送され、榎本や大鳥らと同様、東京辰ノ口糾問所に禁固。明治5年(1872年)に釈放され、明治政府に開拓使御用係・開拓使五等出仕に任ぜられて箱館在勤を命じられたが、翌年には辞した。松平太郎 フレッシュアイペディアより)

  • 大野右仲

    大野右仲から見た五稜郭五稜郭

    著書『函館戦記』によれば、大野は明治2年(1869年)5月11日、千代ヶ岡陣屋で箱館市中に向かう土方歳三と合流し、共に一本木関門へ向かった。箱館港において旧幕府軍蟠竜丸が新政府軍朝陽丸を轟沈させたため、土方に命じられて弁天台場方面へ進撃。敗走する兵が続出していたが、大野は「奉行(土方)が、敗走兵を必ず関門で食い止めてくれる」と信じていたという。しかし、敗走兵が留まる様子が無いことに驚き千代ヶ岡陣屋へ引き返したところ、同役の大島寅雄・安富才助らから土方の戦死を知らされた。なお、土方を訪ねて五稜郭へ来た相馬主計に土方の死を伝えたともいわれている。また、大野は弁天台場で新選組隊士らと共に降伏したとされるが、異論もある。大野右仲 フレッシュアイペディアより)

  • 小芝長之助

    小芝長之助から見た五稜郭五稜郭

    土方の戦死の知らせを聞いて、本営五稜郭より一本木関門まで遺体を引き取りに行った。小芝長之助 フレッシュアイペディアより)

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