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林田和孝から見た井上康生
翌年にはその東海大相模高校に転任した(山下は入れ替わりで卒業)。1977年には第1回の全日本教員柔道大会で優勝を飾った。指導者としては1981年のインターハイ団体戦で全国大会初優勝を果たした。その後もインターハイをはじめ、高校選手権や金鷲旗で数多くの優勝を成し遂げた。1994年には後のシドニーオリンピック100kg級金メダリスト井上康生を指導することになったが、長い指導者人生の中で「練習をやめろ」と言ったのは井上くらい、とことん練習にあけくれる選手だったという。井上の他にも村田正夫、窪田茂、上水研一朗、羽賀龍之介など多数の有名選手を育成した。2002年のインターハイ後に監督を教え子の高橋洋樹に譲って総監督に就任することとなった。総監督時代の2008年と2009年には、1986年及び1987年の世田谷学園高校に続いて史上2校目となる2年連続の高校団体3冠を達成した(高校選手権、金鷲旗、インターハイ)。一方、日本オリンピック委員会の強化スタッフや全日本柔道連盟の男子強化委員なども兼任した。(林田和孝 フレッシュアイペディアより)
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永瀬貴規から見た井上康生
8月の世界選手権では準決勝でチリキシビリを有効で破ると、決勝ではピエトリを崩上四方固で一本勝ちして優勝を飾った。日本選手がこの階級で優勝するのは初めてのこととなった(前身の階級である78kg級を含めると、1995年の世界選手権で古賀稔彦が優勝して以来20年ぶりになる。)。世界団体では決勝で勝利するなどしてチームの優勝に貢献した。10月の学生体重別団体では準々決勝で東海大学と対戦して引き分けると、チームも敗れて5位にとどまった。12月のグランドスラム・東京では準決勝で韓国のイ・スンスと対戦すると、指導1でリードした中盤に内股を仕掛けたが跨れたために股間の下に入り込んだ左手が相手の上裾を掴んだ状態から、相手を掬い投げのように勢いよく投げた。しかしながら、それがポイントにならないどころか反則負けの対象となる足取りと見なされて3位に終わり、今大会3連覇とはならなかった。井上康生監督はジュリーに対して、一連の攻撃では下半身に触れておらずルール上反則にならないと猛然と抗議した。ビデオで何度もチェックし直すと、下半身には触れていなかったことが明らかになったために、審判側は誤審を認めて謝罪した。だが結局判定が覆ることはなく、永瀬の指導にあたる筑波大学の岡田弘隆総監督は「主審は仕方がない。ビデオでチェックするジュリー(審判委員)の知識と理解が足りなかった。ちょっとレベルを疑います」とコメントした。(永瀬貴規 フレッシュアイペディアより)
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アスハト・ジトケエフから見た井上康生
2001年の世界選手権100kgでは準々決勝で井上康生に敗れるが3位となった。2004年のアテネオリンピックでは2回戦でベラルーシのイハル・マカラウに掬投で敗れるなどして7位にとどまった。2006年のアジア大会100kg級で3位になると、無差別にも出場してこちらでも3位となった。2008年の北京オリンピックでは準決勝でオランダのヘンク・グロルを隅返で破ったものの、決勝ではモンゴルのナイダン・ツブシンバヤルに技ありで敗れたが銀メダルを獲得した。(アスハト・ジトケエフ フレッシュアイペディアより)
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ちちんぷいぷい (テレビ番組)から見た井上康生
柔道:篠原信一 - 神戸市の出身で、リオデジャネイロオリンピックの直前から出演。タレントとして出演する他の番組と違って、「北京オリンピック柔道男子日本代表監督」という立場から、代表選手の解説や後任の代表監督・井上康生へのインタビューを担当している。(ちちんぷいぷい (テレビ番組) フレッシュアイペディアより)