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マヘル・アブ=ルミラから見た井上康生
2010年には尊敬する柔道家だという井上康生がパレスチナを訪問した際に、アドバイスを受けたこともあった。その後、世界選手権73kg級に出場すると、初戦となる2回戦で香港の選手に優勢勝ちするものの、3回戦ではポルトガルの選手に一本負けを喫した。2011年の世界選手権には出場しなかった。(マヘル・アブ=ルミラ フレッシュアイペディアより)
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アリエル・ゼエビから見た井上康生
1999年の世界選手権では準決勝で井上康生と対戦することになったが、ケガで棄権して5位となった。2000年のシドニーオリンピックでは準々決勝で井上に内股で敗れて5位だった。2001年の世界選手権では100kg級は2回戦で敗れたものの、無差別では決勝まで進むが、ロシアのアレクサンドル・ミハイリンに出足払で敗れて2位にとどまった。2004年のアテネオリンピックでは銅メダルを獲得した。2008年の北京オリンピックでは2回戦で敗れた。2012年のヨーロッパ選手権では35歳で優勝して今大会最年長チャンピオンになり、イスラエル選手団の旗手にも選ばれたが、試合では初戦で敗れた(アリエル・ゼエビ フレッシュアイペディアより)
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アメル・メキッチから見た井上康生
初戦で敗れたものの、無差別では5位に入る健闘を見せた。2004年のアテネオリンピックでは初戦で井上康生に送襟絞で敗れた。2007年の世界選手権ではまたも5位に終わってメダルを獲得できなかった。2008年の北京オリンピックでは2回戦でカザフスタンのアスハト・ジトケエフに小外掛で敗れた。2011年のヨーロッパ選手権ではオール一本勝ちで優勝を遂げるものの、世界選手権では4回戦でオランダのヘンク・グロルに掬投で敗れた。2012年ロンドンオリンピックの開会式ではボスニア・ヘルツェゴビナ選手団の旗手を務めた。試合では初戦で敗れた。2014年には引退を表明した。(アメル・メキッチ フレッシュアイペディアより)
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モブルド・ミラリエフから見た井上康生
2003年の世界選手権無差別では準決勝でエストニアのインドレク・ペルテルソンに指導2で敗れたものの、100kg級の選手ながら3位となった。翌年のアテネオリンピック100kg級では2回戦で敗れたが、敗者復活戦で井上康生を大内返で破ったものの、その後の3位決定戦で敗れて5位に終わった。2008年の北京オリンピックでは準決勝でモンゴルのナイダン・ツブシンバヤルに有効で敗れたものの、3位決定戦には勝って銅メダルを獲得した。(モブルド・ミラリエフ フレッシュアイペディアより)
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デニス・ファンデルヘーストから見た井上康生
1997年の世界選手権無差別で3位となった。1999年のヨーロッパ選手権無差別ではフランスのダビド・ドゥイエに払巻込で一本勝ちしたものの、結果として3位に終わった。続く世界選手権無差別では、2回戦で篠原信一に内股すかしで敗れたが、その後持ち直して3位となった。2000年のシドニーオリンピックでは初戦でロシアのタメルラン・トメノフの前に敗れた。翌年の世界選手権では無差別で3位となった。2003年の世界選手権では決勝で棟田康幸に指導3で敗れて2位に終わった。翌年のアテネオリンピックでは銅メダルを獲得した。この時一緒に出場した弟のエルコは、100kg級の準々決勝で井上康生に背負投で一本勝ちしながら結果として5位に終わり、兄弟でのメダル獲得はならなかった。2005年の世界選手権無差別の決勝では、それまで分のよくなかったトメノフに体落で一本勝ちを成し遂げて、30歳にして世界チャンピオンとなった。しかし、2008年の北京オリンピックでは初戦でトメノフに敗れた。その後引退して、現在はDJとして活躍している。(デニス・ファンデルヘースト フレッシュアイペディアより)
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蒋盛晧から見た井上康生
1996年の世界ジュニアでは95kg超級に出場して優勝を飾った。その後階級を100kg級にすると、1999年の世界選手権決勝では井上康生と対戦するが、有効2つを取られて敗れた。2000年のシドニーオリンピックでは3回戦で敗れた。2001年の世界選手権では3位となった。2002年に釜山で開催されたアジア大会では、決勝で鈴木桂治に1-2の判定で敗れた。2004年のアテネオリンピックでは決勝でベラルーシのイハル・マカラウに技ありで敗れた。2006年のアジア大会では石井慧を破って優勝した。2008年の北京オリンピックではモンゴルのナイダン・ツブシンバヤルに敗れて7位に終わった。その後引退して、2012年現在は韓国男子代表のコーチを務めている。(蒋盛晧 フレッシュアイペディアより)