-
-
エルコ・ファンデルヘーストから見た井上康生
1998年の世界ジュニア90kg級で3位になり、2002年のヨーロッパ選手権100kg級では優勝した。しかし、2004年のアテネオリンピックでは準々決勝で世界チャンピオンの日本の井上康生を背負投で破る番狂わせを演じるも、準決勝でベラルーシのイハル・マカラウの前に有効で敗れると3位決定戦でもイスラエルのアリエル・ゼエビの小内返で敗れ、メダルを獲得することができなかった。2008年の北京オリンピックではヘンク・グロルとの代表争いに敗れて出場できなかった。2009年にはグロルとの代表争いを避けてベルギーへと国籍を変更し、2010年のヨーロッパ選手権では8年ぶりに優勝を飾った。だが、2012年のロンドンオリンピックでは初戦でこの階級で金メダルを獲得したロシアのタギル・ハイブラエフの崩袈裟固で敗れた。(エルコ・ファンデルヘースト フレッシュアイペディアより)
-
上口孝太から見た井上康生
小学校の時は野球をやっていたが、向丘中学に入ると柔道と相撲を始めた。高校は近畿大学附属福山高校に進学すると、2年の時に金鷲旗で3位となった。大学は日大に進むと、2年の時には正力杯95kg超級で優勝を果たした。さらには無差別の学生選手権でも優勝を成し遂げた。しかし学生2冠を達成しながら、全日本ジュニアの決勝では東海大相模高校の井上康生に背負投で一本負けを喫して2位に終わった。その後の世界学生ではオール一本勝ちで優勝を飾った。3年の時には学生優勝大会で優勝を果たして優秀選手にも選ばれた。卒業後、社会福祉法人慈雄会を経て警視庁に入庁すると、2001年のアジア柔道選手権大会無差別で優勝を飾った。2003年には体重別決勝で村元辰寛を警告で破って優勝した。世界選手権個人戦の代表にはなれなかったが、今大会において設けられた団体戦の代表には選ばれて2位となった。(上口孝太 フレッシュアイペディアより)
-
-
-
第53回国民体育大会から見た井上康生
大会は、柔道の井上康生の活躍、陸上ハンマー投げの室伏広治の当時の日本新記録が出るなど、話題を呼んだ。また、高校硬式野球では松坂大輔率いる地元の横浜高校が、明治神宮野球大会、センバツ、全国高校野球に続き、史上初のグランドスラムを達成。ボクシング少年フライ級では沖尚3年翁長吾央が選抜・インターハイに続き高校三冠王を達成。バスケットボール少年男子では地元出身の田臥勇太が秋田県(能工単体で参加)として高校通算8冠目(インターハイ3度・国体3度・ウィンターカップ2度)を獲得(その年のウィンターカップも制して9冠達成)。(第53回国民体育大会 フレッシュアイペディアより)
-
ユーリ・ルイバクから見た井上康生
2004年のアテネオリンピックでは準々決勝で鈴木桂治と対戦して、先に掬投で技有りを取るが内股で逆転負けを喫した。2005年1月の嘉納杯無差別では、初戦で当時はまだ国士舘高校3年生だった石井慧を得意の隅返で破ると、3回戦ではアテネオリンピック90kg級2位の泉浩を崩袈裟固で破るなどして勝ち進むが、決勝では井上康生に大内刈で一本負けを喫した。9月の世界選手権無差別では、準々決勝で高井洋平を隅返で破るなどして3位となった。2007年の世界選手権無差別では決勝で棟田康幸と対戦して、得意の隅返を執拗に繰り出すがその都度潰されて、最後は横四方固に持ち込まれて敗れた。翌年の北京オリンピックでは2回戦で敗れた。(ユーリ・ルイバク フレッシュアイペディアより)
-
中村和裕から見た井上康生
10歳の頃から柔道を始める。国際武道大学時代には柔道部で柏崎克彦に師事し、2000年には正力杯全日本学生体重別の100kg級で準優勝。大学卒業後には京葉ガス柔道部に所属し、2002年の全日本実業柔道個人選手権大会優勝、ドイツオープン柔道大会100kg級優勝などの実績を挙げる。100kg級では、井上康生、鈴木桂治らと肩を並べ、全日本強化選手入りを果たした。アマチュア時代には、柔道以外の格闘技に挑戦し、2001年にJTC総合格闘技大会で準優勝、全日本サンボ体重別大会で優勝している。2002年8月頃より柔道出身の格闘家の吉田秀彦と練習するようになり、2002年12月に京葉ガスを退社。2003年1月に吉田道場入りし、プロ格闘家へ転向した。(中村和裕 フレッシュアイペディアより)