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坪井智哉から見た井口資仁
青山学院大学時代は「PL学園時代に比べれば練習が全体練習が少ないから楽すぎるくらいだったが、その後の個人練習の時間でどれだけ野球をしてるかでこの先が決まる」と話しているように、個人練習は部員の中で1番最後まで練習している練習の虫だった。(この個人練習が青山学院大学で重点的になったきっかけは「自分たちで練習する時間が欲しい」という小久保裕紀の提言がきっかけで、それ以降、全体練習を減らし、個人練習を増やすという青学大の伝統になっている。)坪井の2学年上に小久保裕紀・同級生に川越英隆・城石憲之・1学年下に井口資仁・高須洋介・澤崎俊和などの選手に恵まれながら練習し、1993年に小久保裕紀らを擁して春季1部リーグを制し、全日本大学野球選手権大会を優勝して大学野球日本一になっている。東都大学リーグ通算86試合出場、286打数70安打、打率.245、7本塁打、47打点。1995年秋季のリーグで打率2位になりベストナインに選ばれた。(坪井智哉 フレッシュアイペディアより)
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矢野謙次から見た井口忠仁
東京都三鷹市出身。小学校2年の時に「三鷹リトルシニア」で野球を始める。同じリトルシニアに元中日の高江洲拓哉も所属していた。三鷹六中時代の「三鷹シニア」ではエース兼4番で関東大会出場。その後國學院久我山高校に進学し同級生に笠木新。東都の國學院大學時代、リーグ2部で通算23本塁打を記録するなどと「井口二世」という呼び名が高く、井口属すソフトバンクと日本ハムが獲得意思を示したが、矢野は高校時代から注目してくれていたという巨人入りを熱望した。球団関係者は「足が速いし、魅力がある。打撃もパンチ力があり、遠くへ飛ばす力を持っている」と高く評価していた。家族構成は両親と兄1人、姉1人。(矢野謙次 フレッシュアイペディアより)
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川越英隆から見た井口資仁
高校卒業後は、監督の河原井正雄から熱心な勧誘を受け東都大学野球連盟所属の青山学院大学に進学した。3年先輩に木村龍治、1年上には小久保裕紀、1年後輩にはプロでもチームメイトとなる井口資仁がいた。しかし大学では通算3勝で終わり、一時は野球を辞めようと考えた。だが村上忠則監督(当時)が誘い、卒業後に社会人野球の日産自動車に入社。第69回都市対抗野球大会では決勝で後にプロでチームメイトとなる後藤光尊を擁する川崎製鉄千葉を下して優勝し、最優秀選手に贈られる橋戸賞を獲得。当時の社会人野球は金属バット使用が認められていたため打者優位にあり、ここで川越は投球術に磨きをかけた。(川越英隆 フレッシュアイペディアより)
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