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井口資仁から見た井端弘和
守備面では鳥越裕介に遊撃手を譲って二塁手にコンバートされ、走塁面ではコーチの島田誠の助言から目標を盗塁王に定めて臨んだ年だった。プロ入り以降、打率が.250を超えたことがなかったことから、確実性を高めるためにフォームを足を上げる打法からすり足打法に変えてレギュラーシーズンに臨んだ。同年は3番としてほぼ定着し、打率は.261(リーグ27位)に終わったが、史上3人目の30本塁打、40盗塁を達成し、44盗塁で盗塁王のタイトルを獲得し、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞した。この年、井口が30本塁打(リーグ12位)を記録したのに加え、松中が36本塁打、小久保裕紀が44本塁打、城島健司が31本塁打を記録し、パシフィック・リーグ初の30本カルテットを形成。日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初の快挙だった。11月には台湾で開催された第34回IBAF(国際野球連盟)ワールドカップの日本代表に高橋由伸、井端弘和や高校生で唯一メンバー入りした寺原隼人らと一緒に選ばれ、3番・二塁手として出場した。(井口資仁 フレッシュアイペディアより)
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井口資仁から見た中内正
5試合連続の猛打賞、1試合4二塁打の日本タイ記録を達成した。開幕戦は7番で迎えたが、レギュラーシーズン途中から3番としてほぼ定着し、ダイハード打線の中心を担った。打率.340(リーグ4位)、27本塁打(リーグ12位)、109打点(リーグ5位)を記録し、OPS1.011(リーグ4位)はチームトップだった。2度目のベストナインとゴールデングラブ賞にも選ばれた。また終盤に村松有人が骨折で離脱したこともあり、2年ぶりの盗塁王(42盗塁)に輝き、松中、城島、ペドロ・バルデスと共に史上初の100打点カルテットを形成した。日本シリーズでは打率は.231に終わったものの、本塁打を2本放ち、優秀選手に選ばれた。年末には一時ポスティングシステムでのメジャー移籍を球団事務所から承認されていたが、小久保の読売ジャイアンツへの移籍により否認。契約更改では「オーナーの中内正の経営体制が刷新した場合、または高塚猛がオーナー代行を辞任した場合、自由契約の選択権は井口にある」との覚え書きを交わした。(井口資仁 フレッシュアイペディアより)
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井口資仁から見た田口壮
ポストシーズンでは10月5日の前年度ワールドチャンピオン、ボストン・レッドソックスとのアメリカンリーグ・ディビジョンシリーズ第2戦で決勝の逆転3点本塁打を放つ活躍などを見せ、移籍1年目でリーグ優勝に貢献した。その後、ワールドシリーズに出場。日本人選手としては新庄剛志、松井秀喜、田口壮に次ぐ4人目のワールドシリーズ出場選手となった。ワールドシリーズ優勝にも貢献し、日本人では伊良部秀輝に次いで2人目のチャンピオンリングを獲得した。伊良部はワールドシリーズに出場しておらず、実際に出場してリングを獲得したのは井口が初めてである。しかし、最後の打席後に交代し、優勝決定の瞬間はベンチにいたため、「優勝した瞬間グラウンドにいた最初の日本人選手」の座は翌年の田口に譲ることになった。また、日本人で初めて日本シリーズとワールドシリーズの両方を制覇した選手となった。レギュラーシーズン終了後には、両リーグから選ばれる新人ベストナインに二塁手部門で選ばれる。後にこのシーズンについて自己犠牲を強いられる役割には不満があったと語るが、ギーエンの「今年のMVPは井口。井口みたいな野球を深く理解している選手はいない。彼がいたからホワイトソックスはワールドシリーズを制覇出来た」という言葉で救われたという。(井口資仁 フレッシュアイペディアより)