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高砂義勇隊から見た交流協会
1974年末にインドネシアのモロタイ島で発見された台湾人日本兵、中村輝夫(本名、スニオン、李光輝)も、台湾原住民アミ族出身の義勇隊員である。彼の確認が、日本の世論において「高砂義勇軍」が話題に上った最初のきっかけとなった。彼の発見をきっかけに給与が未払で補償がないことに関する世論の批判もおき、1990年代に戦病死者及び重傷者を対象に一人200万円(台湾ドルで約43万ドル)の弔慰金が支払われたが、給与は現在でも未払である(以下の柳本の文献参照)。また、当時強制的に軍事郵便貯金とされた給与も引き出せなかったが、これは120倍にして返却することが決まり1995年に支払いが開始され一部の元隊員は受け取った。しかし平均1000円ほどの残高を所持し、当時としては大金だったのに120倍で引き出しても12万円にしかならない。これに抗議して、1996年6月に、日本大使館に相当する台北の交流協会を元隊員が襲撃する事件が起こった。現在でも、物価上昇を考慮すると、数年間の戦闘の対価としてはあまりに少額として抗議する元隊員も多い。(高砂義勇隊 フレッシュアイペディアより)
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日本国と中華民国との間の平和条約から見た日本台湾交流協会
その後は、日本国と中華民国(台湾国民政府)の実務関係を処理するため公的民間団体と言う形で日本台湾交流協会(2017年に「交流協会」から名称を変更)と亜東関係協会をそれぞれ設け、両政府に代わり外交・領事業務を行っている。(日本国と中華民国との間の平和条約 フレッシュアイペディアより)
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