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丹波国から見た桜井勉
そもそも丹波は、中央集権体制を進める明治政府の大久保利通らにより、但馬・丹後を含め似通った地域性を無視して2府県に分けられた。亀岡市及び旧船井郡園部町、八木町を除き府県庁所在地でもある京阪神から遠く離れ、両府県および国の施策からは重きを置かれずにいたので、高度経済成長期に一層の過疎化が強まった。なお、1871年(明治4年)11月2日?1876年(明治9年)8月21日の約5年間は、桑田、何鹿、船井3郡および山城が京都府、氷上、多紀、天田3郡および但馬、丹後が豊岡県と言う構成であった。豊岡県を二分し、天田郡と丹後が京都府、氷上、多紀2郡と但馬が兵庫県に編入されることになったのは、旧出石藩士の桜井勉の発案であるが、当初桜井は豊岡県全域と飾磨県(播磨)との合併を進言したようである。(丹波国 フレッシュアイペディアより)
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