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今野泰幸から見た浦和レッドダイヤモンズ
2005年7月、東アジアサッカー選手権においてジーコ監督率いる日本代表に初選出され、同大会の中国戦で国際Aマッチ初出場を記録した。同年末、イタリア・セリエAのUSレッチェから興味を持たれていたが、12月の天皇杯浦和戦で左膝内側側副靱帯を損傷してしまう。イタリアに渡り診察を受けたものの、レッチェが想定する以上の重症だったことから 正式オファーには至らなかった。(今野泰幸 フレッシュアイペディアより)
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今野泰幸から見たサッカーコートジボワール代表
オシム退任後、日本代表監督となった岡田武史は今野を「ユーティリティーがあって貴重な選手」と評し 常に代表に選出。2010年に開催されたワールドカップ・南アフリカ大会日本代表メンバーにも選出し、宮城県出身選手として初となるワールドカップ日本代表選手となった。本大会直前に行われたコートジボワールとの親善試合で左膝靭帯損傷の怪我を負ったものの、懸命のリハビリを行い本大会に間に合わせ、グループリーグ第3戦のデンマーク戦において途中出場を果たしたが、本大会での出場はこの1試合に終わった。(今野泰幸 フレッシュアイペディアより)
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今野泰幸から見たブルーノ・エベルトン・クアドロス
2009年は第9節よりセンターバックにコンバートされ、玉際の強さや優れたカバーリングを発揮。さらに両足でのフィード力を活かして同じくCBのブルーノ・クアドロス、ボランチの梶山陽平らとFC東京のポゼッションサッカーの起点となった。(今野泰幸 フレッシュアイペディアより)
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今野泰幸から見たヤセル・アル・カフタニ
2006年10月、イビチャ・オシム監督から日本代表に選出され、ガーナ戦で代表では初めてとなるディフェンダーとして右センターバックのポジションでフル出場した。11月のサウジアラビア戦ではフォワードのヤセル・アル・カフタニのマークにつく一方で、果敢なオーバーラップから2点目をアシストし、3点目の起点となるパスを配球。いずれも我那覇和樹の得点を導いた。これ以後もオシムは「好みではないポジションも喜んでやる準備ができている」 と今野を高く評価し、サイドバックなど複数のポジションで起用した。(今野泰幸 フレッシュアイペディアより)
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今野泰幸から見た米倉恒貴
2015年、1月にオーストラリアで行われたAFCアジアカップ2015ではグループリーグのイラク戦で左太もものハムストリング肉離れで戦線離脱し、2月のキャンプには復帰するもまたも同じ左太ももを故障し2015年シーズン開幕に間に合わなかった。自身が離脱中、チームは公式戦2分3敗と低空飛行を続けるも、4月上旬に復帰しその後は安定したプレーを見せ、G大阪の復調を支えた。CS準決勝浦和戦では先制ゴールを決め決勝進出に貢献。決勝の広島戦では第1戦・第2戦共にセットプレーからゴールを決めるもいずれも勝利には結びつかず後一歩でリーグ連覇を逃した。天皇杯決勝浦和戦では試合開始早々に米倉恒貴が負傷交代したことで右サイドバックを務めることになり、勝ち越した後半は浦和の猛攻を受けるもこれを耐え抜き天皇杯連覇を達成した。(今野泰幸 フレッシュアイペディアより)
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今野泰幸から見たジャーン・カルロ・ウィッテ
2004年に「J1であること」、「若手の出場機会が多い」、「まだタイトルを取った事が無いチームで、チームと共に成長できると思った」ことが決め手となり、J1のFC東京に完全移籍した。前年末のワールドユースが終了してすぐの 1月からは山本昌邦監督率いるU-23日本代表に飛び級で招集され、アジア地区最終予選では代表チームでただ一人全6試合にフル出場しアテネオリンピック出場に貢献。8月のオリンピック本大会にも出場した。同年のヤマザキナビスコカップ決勝では、FC東京のセンターバックであるジャーンが退場し1人でボランチを任されることになったが、延長戦を含む100分近い時間を守りきり、自身にとってもクラブとしても初のタイトル獲得を果たした。(今野泰幸 フレッシュアイペディアより)