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1978年の日本シリーズから見た伊勢孝夫
試合は阪急が1回にマルカーノの適時打で1点、2回に中沢、今井雄、簑田浩二の適時打で4-0とし早々に安田をKO。さらに2番手井原も5回に簑田の三塁打をきっかけに1点を許す。今井雄も第2戦で見せた弱気な一面を見せることなくヤクルト打線を抑え、試合は一方的な展開になるかと思われた。しかし6回表、代打永尾泰憲とデイヴ・ヒルトンの連打で無死1、2塁とすると、船田のショートへのゴロを2塁走者永尾が守備妨害スレスレの走塁で大橋のエラー(シリーズ3つめ)を誘い満塁に。ここで若松の右前打、大杉の遊ゴロ、マニエルの一ゴロ、杉浦の右前打であっという間に5-4に。そして9回表、2死無走者から代打伊勢孝夫が内野安打で出塁。ここで上田監督が投手交代のためマウンドへ向かうが、今井雄は続投を志願。上田は志願を受け入れ「四球になってもいいから低目に投げるように」とだけ指示した。しかし初球は高めに浮くカーブ。2球目も真ん中にカーブが入り、これをヒルトンがフルスイング。逆転2ランとなった。逆転された阪急はその裏、リリーフ登板した松岡を攻め1死1塁、走者福本の場面を作るが、大矢が福本の盗塁を刺し、後続を松岡が抑えゲームセット。5点差を逆転したヤクルトがシリーズの流れを一変させる大きな1勝を手にした。(1978年の日本シリーズ フレッシュアイペディアより)
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読売ジャイアンツから見た伊勢孝夫
2006年はチーム方針として2005年のワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスに習い「スモール・ベースボール」を掲げた。開幕当初は首位を独走していたが、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したことで失速することとなった。これに対して西武を自由契約となり米国挑戦したものの契約を結べず帰国していた小関竜也を入団テストで、広島の木村拓也を交換トレードで、前年阪神を解雇されたもののメキシカンリーグで好成績を収めていたジョージ・アリアスを来日させそれぞれ獲得するなど建て直しを図ったが、6~7月には8連敗、10連敗、9連敗と立て続けに大型連敗を喫し、一時は最下位にまで転落した。最終的にチーム防御率は1点以上の改善があったものの野手陣の不調で4位に終わり、いずれも球団史上初の4年連続完全V逸と2年連続Bクラスとなった。この結果を重く見た球団はさらなる改革に着手した。首脳陣ではまず走塁面の強化に西武黄金期に三塁ベースコーチとして活躍した伊原春樹を野手総合コーチとして招聘。篠塚守備走塁コーチを打撃コーチへ配置転換、伊勢孝夫スコアラーを打撃コーチ補佐として現場復帰させた。なお近藤ヘッドコーチが退任し、総括ディレクターに就任、それに伴って開幕直前に伊原がヘッドコーチを兼任することとなった。選手では仁志敏久を交換トレードで横浜に放出、小久保がFAでソフトバンクに移籍したが、ソフトバンクを戦力外となったベテランの大道典嘉を無償トレードで、オリックスの谷佳知を交換トレードで、日本ハムの小笠原道大をFAでそれぞれ獲得したほか、残留を前提としたFA交渉を打ち切られた横浜の門倉健も加入する。一方門倉の加入に伴って補償選手として工藤を放出することとなり、逆にソフトバンクから小久保の補償選手として吉武真太郎を獲得した。(読売ジャイアンツ フレッシュアイペディアより)
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高田繁から見た伊勢孝夫
は開幕当初は3カード連続勝ち越しと上々のスタートを見せたが、4月中旬以降になり急激に失速。連勝すら挙げられなくなる。5月にセ・パ交流戦が始まってからは全く勝てなくなり、球団に進退伺いを出す事態となる。6連敗となった5月20日、球団から慰留を受け一度は辞任を思い留まるものの、その後も2連敗。5月23日にはテコ入れとして、打撃アドバイザーに伊勢孝夫を招聘。5月26日には一部メディアで「辞任」と報じられる。本人は一旦は否定したものの、同日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(神宮球場)でも敗れ、9連敗となる。試合後、改めて辞任を申し出て了承された。ここまで13勝32敗1分の借金19で、リーグ最下位。特に4月24日以降は、2勝20敗と大きく負け越した。後任には、ヘッドコーチの小川淳司がシーズン終了まで監督代行を務めることとなった。連敗に業を煮やした少年ファンの「やめちまえ」の罵声を浴びたことが、最終的に辞任に踏み切らせたという。(高田繁 フレッシュアイペディアより)