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名張藤堂家から見た伊賀国
藤堂高虎は実子に恵まれなかったため、養子として迎えた高吉(丹羽長秀の三男)を後継者にしようと考えていたが、慶長6年(1601年)に高虎に実子・高次が生まれると、その話も消滅する。伊予国今治城主(高虎の城代)となっていた高吉は、寛永7年(1630年)の高虎の死後、実子の高次の家臣として仕えるようになる。寛永9年(1632年)、松平定房が今治へ移封されることとなったため、伊勢国へ2万石の移封となった。しかしその後、寛永13年(1636年)、高次の命によりさらに伊賀国名張に移封された。次男以下3人に5000石を分知し、15000石となった。高次は高吉の存在を危険視したとされ(幕府に高吉を藤堂本家から独立した大名に取り立てようという動きがあったためといわれる)、名張移封も高吉に対する高次の冷遇の一環であったといわれる。その後、享保年間まで名張藤堂氏と本家との対立は続いた。(名張藤堂家 フレッシュアイペディアより)
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