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率分から見た伊賀国
正蔵率分は天暦6年9月11日(952年)創設(『別聚符宣抄』)。規定された庸調・交易雑物、その他中央(大蔵省)に納める諸国の租税・負担の1/10を別途納付させる制度で実質的には諸国にとっては新たな負担であった(ただし、『二中歴』によれば畿内・陸奥国・出羽国・周防国・志摩国・淡路国・伊賀国は負担を免除されていたという)。納付先は弁官が別当を務める率分所(率分堂)と呼ばれる令外の機関であり、律令国家の中核である太政官および政務における重大な関心事であった国家的な仏事・神事の遂行を維持するための財源確保に重点が置かれていた。そのため、受領功過定の審査対象にされたばかりではなく、率分からの支出には天皇への奏聞を必要としたり、臨時の納付を命じる切下文(くりくだしぶみ)が発給されたり、11世紀初頭までには別納率が2/10に引き上げられたりした。鎌倉時代に入っても曲りなりにも存続していた。(率分 フレッシュアイペディアより)
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検断から見た伊賀国
一方、寺社・公家は境内・屋敷・所領において検断権を持ち、京都では一次的には内部における処分(懲戒・拘禁など)が行われ、重大な犯罪の場合には検非違使庁に引き渡して犯人財産の没収権を確保していた。地方の所領・荘園では預所・下司・公文などの荘官が検断権を行使し、荘園領主である本所が惣追捕使を任じている場合や幕府が地頭を設置している場合には彼らが主として検断を行った。その裁判は本所で行われるが、政所や集会など裁判を行う機関は本所によって異なっていた。本所一円領の場合は、本所が検断権の全てを行使できるが、それ以外の所領の場合、武家の検断権の関与を受け、地頭あるいは守護およびその使節が荘園内に入った。重科が本所一円領に逃げ込んだ場合には守護が本所に犯人引き渡しを要求し、境界にて引き渡しを行うことになっていたが、本所側は引き渡しに応じる義務をなかった。例えば、伊賀国黒田荘では、悪党が同荘に逃げ込んだのに対して、守護代(守護使節)が本所である東大寺に引き渡しを求めたところ、東大寺は表向きには引き渡しに同意したものの実際には預所に命じて引き渡しを拒絶させるという事件が起きている。鎌倉時代後半になると、悪党に対応しきれなくなった本所側が放状を出して守護不入を一時的に解除するなどの措置によって守護およびその使節の立入を認め、あるいは地頭の設置を容認して武家の支援を仰ぐ場合もあった。(検断 フレッシュアイペディアより)