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生駒正種から見た伊賀国
寛永14年(1637年)7月、生駒帯刀は江戸へ出て藤堂家の藩邸へ行き訴状を差し出した。訴状を受け取った藤堂高次は容易ならぬことと思い、土井利勝と生駒家縁戚の脇坂安元と相談し、穏便に済ますよう帯刀を説諭して国許へ帰らせた。しかし、家中の対立は収まらず、寛永15年(1638年)10月、帯刀は再び高次に前野と石崎を厳しく裁くよう訴え出た。国許にあった高次は帯刀を伊勢国津に呼び、家中の不和が続くようではお家滅亡になると諭して帰した。寛永16年(1639年)5月、高次は一件を収拾するため喧嘩両成敗として双方の主だった者5人に前野、石崎および国許から帯刀を藤堂藩邸に呼んで説得し、彼らは切腹することを承知した。帯刀は藤堂家の領地の伊賀国へ退いた。しかし、帯刀派は忠義の者が同罪というのはおかしいと、江戸にいる藩主高俊に帯刀ら忠義の者の命を助けるよう訴えた。これまでの顛末を知らない高俊は驚き、高次に抗議した為、高次は後見職から手を引いた。これにより、帯刀は国許に帰った。前野と石崎も切腹をやめ、前野・石崎派は老中稲葉正勝を介して幕府に訴状を提出した。そして、武装をして、一族郎党が国許から退去し大騒動に発展した。幕府の詮議により、前野・石崎派は武装して立ち退いたことなど幕府の心象が悪く4人が切腹また多くのものが処刑となったのに対して、帯刀派に対しては生駒帯刀は主人に対して忠心あるとして出雲国松江藩にお預け、その他の者も諸大名家へお預けとり、藩主の生駒高俊は出羽国へ流罪となり、堪忍料として矢島1万石を与えられた。(生駒正種 フレッシュアイペディアより)
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