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古川能章から見た住友ゴム工業
なおこの間、社会人リーグ昇格を急いだのは古川が全国リーグである日本サッカーリーグ(JSL)創設の構想を早くから知っていたからである。これには、古川が早稲田OBで東京の事情に詳しかったことと、JSL創設に尽力した長沼は古川の学生時代の同期で長沼からJSLの可能性と価値を聞いて理解していた事も大きな要因の一つであった。古川は長沼から逐一最新の情報を入手し、参入のために必要な条件を把握、会社にも早くから根回しをし、「1年目にリーグに入らなければ、どんどん差が広がってしまう」と必死に会社を口説いた。当時の関西には田辺製薬という名門の他、湯浅電池・大日日本電線・電電近畿・日本ダンロップなどの歴史のあるチームがひしめいていたが、それらはJSLの価値と成功の可能性に大きな疑念を抱き、参加を見送った。結果、創部10年にも満たないヤンマーが関西唯一のチームとしてJSL第1回からの参加となった。(古川能章 フレッシュアイペディアより)
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1976年F1世界選手権イン・ジャパンから見た住友ゴム工業
地元日本のコンストラクター、チーム、タイヤメーカー、ドライバーがスポット参戦でエントリーした。コジマはこの1戦に照準を合わせてKE007を開発し、富士で事前走行を重ねた。タイヤは日本ダンロップ、ドライバーは長谷見昌弘。マキはF102Aを製造し、ホットスタッフレーシングに運営を任せた。ヒーローズレーシングはティレルの中古マシン007を購入し、ブリヂストンタイヤを使用して星野一義をエントリーした。ヒーローズのティレルには、ムーンクラフトが作製したスポーツカー・ノーズが取り付けられた。(1976年F1世界選手権イン・ジャパン フレッシュアイペディアより)
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1977年日本グランプリ (4輪)から見た住友ゴム工業
前年スポット参戦した日本勢は、体制を変更してこの1戦に臨んだ。コジマはエントリーを2台に増やし、星野一義(ヒーローズレーシング)と高原敬武(高原レーシング)という国内トップドライバーコンビが新車KE009に乗る。タイヤは前年ヒーローズが使用したブリヂストンタイヤ。また、前年ヒーローズが購入したティレル・007をメイリツレーシングが使用し、ベテラン高橋国光がF1デビューした。こちらは前年コジマが使用した日本ダンロップタイヤを履く。(1977年日本グランプリ (4輪) フレッシュアイペディアより)