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コンビナートから見た住友化学
日本の石油コンビナートは、戦後復興がある程度実り、成長を図ろうとしていた日本が「軽工業から重化学工業への転換」を謳っていて、石油コンビナートは設置からその政策の延長線上にあった。日本では当時、一つの企業でコンビナート全体を作るコストに耐える体力がなかったことと、多くの企業が参画できるように政府が企業の調整を行っていた、とされている。そしてこの「複数の企業で一つのコンビナートを形成する」が日本の石油コンビナートのユニークな点であり、現在においては足かせともなっている。1956年、川崎市、四日市市、岩国市、新居浜市の4ヶ所に建設が決定され、それぞれ日本石油化学、三菱油化、三井石油化学工業、住友化学工業が中核業者となった。1958年に三井化学・岩国(日本最初のコンビナート)、住友化学・新居浜が稼動。4箇所の中核業者をみてもわかるとおり、エチレンプラントという巨大な設備投資に耐えられるのは旧財閥・コンツェルン系企業であった。(コンビナート フレッシュアイペディアより)
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鈴木馬左也から見た住友化学
文久元年(1861年)2月24日、高鍋藩家老の父秋月種節(たねよ)と久子の四男として、日向国高鍋(現・宮崎県児湯郡高鍋町)で生まれた。明治元年、母方の大叔父鈴木翔房(たかふさ)が七五歳で没し、その養子衞房(もりふさ)も戊辰戦争に加わり、27歳で戦死した。翌2年、馬左也は鈴木家再興のため、戦死した衞房の養子となり同家を継いだ。明治9年宮崎学校(現、宮崎大学教育文化学部)を卒業し、同年金沢の啓明学校(現、金沢大学)へ入学したが翌年退学して、11年から東京帝国大学予備門に入学し明治20年、27歳で東京帝国大学を卒業すると内務省に入り、22年愛媛県書記官として赴任した。翌年別子銅山開坑200年祭に来賓として新居浜に招かれ、住友との最初の出会いをはたす。明治29年1896年、農商務省参事官を退官し、住友に入社、大阪本店の副支配人となる。明治32年(1899年)別子鉱業所支配人となる。伊庭貞剛の別子大造林計画を継承し大正6年(1917年)から北海道北見から、宮崎県椎葉村まで山林事業を起こし、また朝鮮の国有林にまで植林を敢行した。大正2年新居浜の煙害問題解決のひとつとして住友肥料製造所(現、住友化学)を開設した。明治37年(1904年)第三代総理事に就任。明治44年住友電線製造所(現、住友電工)を設立。明治45年には伸銅場(現、住友金属・住友軽金属)で継ぎ目なし鋼管の製造に着手し、海軍の復水管需要に応える。大正2年(1913年)住友肥料製造所(現住友化学)を設立し、同8年大阪の臨海工業地帯建設のために大阪北港(後の、住友土地工務)を設立した。さらに同年、別子鉱山の電源開発を目的に土佐吉野川水力電気(後の住友共同電力)、宮崎県の椎葉植林に関係して耳川の水利権を確保した。これらが現在の四国・九州電力発足の遠因となる。大正7年日米板硝子(現、日本板硝子)を設立、同九年日本電気へ資本参加した。また1921年には住友本店を合資会社に改組するなど、住友の発展の大いに貢献した。(鈴木馬左也 フレッシュアイペディアより)
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