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明石健志から見た佐藤友亮
''は、入団1年目の5月2日、対大阪近鉄バファローズ戦で8回表1点ビハインド一死無走者から本間満の代打で初出場すると、川尻哲郎のスライダーをプロ入り初打席初安打となる右中間三塁打を放ち、川崎宗則のライトへの同点犠牲フライにより初得点も記録した。三塁守備要員として吉本龍生が送られたため守備に付くことはなかった。その後3試合は代打起用のみ、5月9日の対オリックス・ブルーウェーブ戦9回1点ビハインドの場面でヒットを打った先頭ペドロ・バルデスの代わりにプロ初の代走起用され、二死満塁本間の打席中に山口和男が暴投した所、すかさず本塁を陥れ同点とし、本間のサヨナラ打を呼んだ。王貞治監督の構想により本格的に外野練習に取り組むことが決まった。5月12日対西武ライオンズ戦9回表、高橋和幸に代わり中堅手としてプロ入り初の守備に付き、二死二三塁の場面で佐藤友亮のセンター前ヒットを処理して本塁へ好返球して二塁走者の後藤武敏を刺した。5月13日から実戦経験を積むため二軍で調整することになった。10月27日の宮崎キャンプ2日目、右肩痛でキャンプ不参加の川崎、ポスティングシステムによりメジャー挑戦を狙っていた井口資仁という二遊間事情から、王監督は明石を内野で育成する方針を打ち出した。ウエスタン・リーグでは81試合に出場し、打率.304(リーグ6位)、三塁打12本(リーグ1位)、19盗塁(リーグ4位)と力を示し、ウエスタン・リーグ優秀選手賞を受賞した。(明石健志 フレッシュアイペディアより)
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田中大貴から見た佐藤友亮
2002年東京六大学野球春季リーグ戦で、初めて一塁のレギュラーに定着。東大の浅岡知俊、明大の岡本篤志、立大の多田野数人から計3本塁打を放ちホームラン王のタイトルホルダーとなった。そのほか青学大の石川雅規、駒大の川岸強からもホームランを打っている。長田秀一郎、湊川誠隆は大学の同期。佐藤友亮、山本省吾は大学の二つ先輩。大学4年次の慶早戦で和田毅に全く歯が立たなかったことや、先輩の高橋由伸からアナウンサーとしての就職を勧められたことから、プロ入りを断念。2010年1月、自身がMCを務める『すぽると!』で和田を対談インタビューし、7年ぶりに和田と再会した。(田中大貴 フレッシュアイペディアより)
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高橋由伸から見た佐藤友亮
慶應義塾大学野球部で1年時からレギュラー。春季リーグ戦の開幕1試合目から5番・三塁手として出場、ルーキー新記録の3本塁打を放った。3年時の東京六大学野球1996年春季リーグ戦では打率.512、5本塁打を記録して三冠王を獲得。4年時の1997年には主将に就いた。相手が勝負を避けるようになり、2試合で7四球など敬遠も目立つ中、春季リーグ戦ではチームを9季ぶりのリーグ優勝に導くなど貢献する。秋季リーグでは法政大学の安藤優也から本塁打を放ち、田淵幸一の持つ東京六大学リーグ本塁打記録を更新した。リーグ通算102試合出場(4年間全試合フルイニング出場)し、通算打率.325、119安打(当時歴代4位)、23本塁打(歴代1位)、62打点(当時歴代12位)、219塁打(歴代1位)と記録的な成績を残す。日米大学野球においても日本代表の4番打者として3試合連続本塁打を打つなど活躍。インターコンチネンタルカップでも大学生ながら日本代表の4番打者として出場し、上原浩治(大阪体育大学)が先発した国際大会151連勝中のキューバとの決勝戦で1回裏に先制点かつ決勝点となる3点本塁打を放ち、その後も2点三塁打を打つなど優勝に貢献した。同年に大学を卒業し、甘いマスクと走攻守を兼ね揃えた六大学のスターとして高い人気を誇っていた。ちなみに、リーグ戦では1度だけリリーフ投手として登板し無失点で切り抜け、球速149km/hを記録したことがある。当時慶大の後藤寿彦監督は高橋のことを「試合の勝敗にはすごくこだわるのに、自分の記録や賞についてはギラギラしていない」と語った。高橋の大学の3学年後輩である佐藤友亮は、「後輩に怒ることが全く無く、後輩が叱られていたら庇ってくれる仏様のような人」「彼がいなかったら何人も野球部を辞めていた」とプロ入り後に語っている。また、高橋と同期である明治大学の川上憲伸とは六大学野球新記録となる本塁打を放つなど大学時代よりライバルであった。(高橋由伸 フレッシュアイペディアより)