-
渥美清の泣いてたまるかから見た佐藤純彌
放映日:1966年10月9日 タイトル:帰れ!わが胸に 脚本:光畑碩郎 監督:佐藤純彌 出演者:岡本佳津子、入川保則、久米明、松村達雄、高峰三枝子、江幡高志(渥美清の泣いてたまるか フレッシュアイペディアより)
-
面影 (しまざき由理の曲)から見た佐藤純彌
1975年(昭和50年)、TBSテレビは、同年5月17日に終了するTBS土曜9時枠の連続テレビ映画『バーディー大作戦』につづく番組として『Gメン'75』を引き続き東映とともに製作することを決定、この新番組のエンディング曲を製作するにあたって、前番組のエンディング曲『愛と死のパスポート』の作詞(佐藤純彌)、作曲(菊池俊輔)、歌手(嶋崎由理)をそのまま踏襲した。ただし嶋崎由理については、同作から「しまざき由理」と改称した。同シングルは、オリコンチャート週間最高位6位にランクイン、翌年1976年に入ってもロングヒットを続け140万枚を売り上げた。発売当時、しまざき由理は東京女子体育大学1年次に在学中であったが、収録時にはまだ高校生であった。(面影 (しまざき由理の曲) フレッシュアイペディアより)
-
登石雋一から見た佐藤純彌
1971年(昭和46年)には東映本社の人事部長、岡田茂社長就任後の翌1972年(昭和47年)6月30日には東映動画の代表取締役社長に就任(兼任)、1974年(昭和49年)には東映の取締役企画製作部長・経営企画室長に就任している。東映動画社長時代は、就任1週間後の7月7日に希望退職の募集を開始、企業合理化を試みるとともに、1973年(昭和48年)3月17日公開の『パンダの大冒険』(監督芹川有吾)等を製作した。その傍らで、1977年(昭和52年)6月9日 - 同11日、三百人劇場で行われた東大演劇同窓会第1回公演『』(演出岩淵達治、原作ベルトルト・ブレヒト)に出演、成島庸夫、田村孟、佐藤純彌らとともに「貧民」役を演じたほか、劇映画においても、1979年(昭和54年)7月21日に公開された『わが青春のイレブン』(監督降旗康男)に出演し、「サッカー部長」を演じた。同月には、企画製作部長を退任して後任の高岩淡(1930年 - )に引き継ぎ、東映の取締役経営企画室長の役職を残し、当時東京証券取引所第2部上場企業であった東映関係会社・東映化学工業(1961年10月上場、2007年3月27日上場廃止)の専務取締役に就任した。(登石雋一 フレッシュアイペディアより)
-
-
岡田茂 (東映)から見た佐藤純彌
1955年、アメリカ映画視察で観たシネマスコープ映画製作に意欲を燃やし1957年、他社に先駆け「東映スコープ」『鳳城の花嫁』を公開させた。同年、マキノが志半ばにして死去。京撮製作部長として“マキノイズム”を推進すると共に、徹底した予算管理を行い、東映時代劇黄金時代の一翼を担う。同年『忍術御前試合』で沢島忠を監督デビューさせた。また監督を目指して入社してきた日下部五朗を「体がでかい」という理由で無理やりプロデューサー修行させる。1960年京撮所長。山城新伍主演でテレビ制作した『白馬童子』が人気を得ると、将来のテレビの普及を予想しテレビ制作を増やす。北大路欣也と松方弘樹を高校卒業と同時に入社させた。1961年、吹き替え・スタントマンの重要性に気づき、日本最初のスタントマンともいわれる宍戸大全を大映から引き抜く。1962年、36歳の若さで東映取締役兼東京撮影所長(以下、東撮)に就任すると低迷していた東映現代劇を“現代アクション路線”で復活させる。「映画の本質は、泣く、笑う、にぎる、だ。手に汗をにぎるだ。この三つの要素がないと映画は当らん」と部下に叱咤。佐伯孚治、鷹森立一というベテランを監督デビューさせた反面、当たらない映画を作っていたベテラン監督を一人残らず切り、深作欣二、佐藤純彌、降旗康男や新東宝から引き抜いた石井輝男、渡辺祐介、瀬川昌治ら若い才能を抜擢した。また、日活にいられなくなった井上梅次を誘い『暗黒街最後の日』(1962年)など、7本を監督してもらう。石井輝男は「当時は岡田さんが最高潮で、企画会議でホン(脚本)を検討して決めるというスタイルじゃなく、岡田さんの一言で製作が決まって、会議なしという感じでした」と述べている。(岡田茂 (東映) フレッシュアイペディアより)