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西光寺山から見た修行
昔、西光寺山山頂に諸国を漫遊し修行を積んだ高僧が庵を結び住んでいた。僧は百姓の病気を治療したり、講話をしたり、農作物の作り方などを指導し、村人に大変慕われていた。僧の住む粗末な庵には、ひときわ立派な木箱が置かれていたため、村人は何が入っているのか興味しんしんに僧に尋ねたところ村が飢餓や疫病に襲われた際に救ってくれるものが入っている、しかし中を見ると悪い心を起こすものが出るので決してあけてはならない、と言った。見るなと言われると見たくなるのが人情で、ある日、僧がいない隙を見て若者の一人が木箱の蓋を開けてみた。すると中には金無垢の鶏がまばゆい光を放っていた。この事実は村人へ口伝され評判となった。村を通りがかった旅人がこの話を耳にし真夜中に僧の庵に忍び込み木箱へ手をかけた。途端に、稲光と雷鳴がとどろき旅人は谷底へ転げ落ちてしまった。僧は何事もなかったかのように寝入っていた。(西光寺山 フレッシュアイペディアより)
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死ぬ瞬間から見た修行
キューブラー=ロスは死の意味をここであえて哲学的に探ろうとはしない。本書の意図ではないからであるが、一方「死ぬ人が”平和と威厳”をもって死ぬ権利がある」と主張する。この死に臨んだ静かな境地をキューブラー=ロスは「デカセクシス(Decathexis)」と呼んだ。自分自身を周囲の世界とのかかわりから引き離すというような意味である。これは日本語の”解脱、涅槃の境地”、”無我の境地”などに該当する。このときに患者は頻繁に短い間隔で新生児のようにウトウトとまどろむ必要があると説く。この時期は、短くて数時間、通常数日、長ければ数週間続くことがあるという。その後、臨終が来る。仏教では相当な修行を積み到達する涅槃も、キューブラー=ロスは凡人でも周囲の人々の愛と協力があればデカセクシスに容易に到達できるとする。また、愛と協力の本質はコミュニケーションであるとした。(死ぬ瞬間 フレッシュアイペディアより)
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