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倉本聰から見た岡田茂 (東映)
1963年にニッポン放送を退社。退社のいきさつについて倉本は、後にインタビューで「ニッポン放送には内緒でペンネームを使って脚本家をやっていた負い目から、ニッポン放送で担当していた番組には(脚本家同士として顔見知りである)若手の脚本家ではなくベテランの脚本家ばかり起用していたが、それを上司に咎められたうえ『最近倉本って若手が出てきたから一度会って来い』と命じられ、そろそろ潮時だと思った」と語っている。また他のインタビューでは「(2時間睡眠の生活を)2年も続けると「もたない」と思いました」と語っており、掛け持ちを続けるのは体力的にも限界だったことを示している。岡田茂の自伝では、倉本がニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない、と東映に籍を置かせて欲しいと中島貞夫を介して岡田に頼んできたと書かれている。(倉本聰 フレッシュアイペディアより)
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