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天神山城の戦いから見た備後国
こうした状況を打破すべく宇喜多直家は小早川隆景に書状を送り、対して浦上宗景も吉川元春に書状を送ったが、毛利は宇喜多を支援することで決定した。この毛利の決定に反発したのが宇喜多と長年争ってきた備中の三村元親であり、三村との関係を悪化させてまで宇喜多と結ぶ事には吉川元春らが反対したものの小早川隆景・安国寺恵瓊ら賛成派が押し切った。三村元親は天正2年(1574年)8月の時点で既に織田信長から「備中の本領に加えて備後一国を与える」というの条件で調略を受けていたが、毛利が宇喜多と同盟したことにより著しく関係が悪化したに目をつけた大友宗麟の要請で三浦家臣の牧尚春が三村氏に調略を仕掛け毛利との手切れを勧めた。この調略に毛利との関係維持を唱えた三村親成ら一部を除く元親始め三村一門は賛同の意を示し、ついに三村氏は毛利と手切れして織田信長と同盟し、身の危険を感じた親成らは毛利を頼って備中を脱した。三村が毛利から離反した事により宇喜多は三方を敵領に囲まれる事となったが、毛利の対応は迅速であり、同年11月には早くも三村討伐軍を編成し備中に大軍を送り込んだ(備中兵乱)為、三村軍は毛利への対応で手一杯であり、浦上への助けとはならなかった。(天神山城の戦い フレッシュアイペディアより)
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素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)から見た備後国
素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は、広島県福山市新市町大字戸手にある神社。式内社で、備後国一宮を称する。旧社格は県社。(素盞嗚神社 (福山市新市町戸手) フレッシュアイペディアより)