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善道真貞から見た備後国
仁明朝では、承和3年(836年)朝臣姓に改姓した後、承和5年(838年)正五位上、承和6年(839年)従四位下と昇進する。承和8年(841年)には皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられるが、承和9年(842年)に発生した承和の変により恒貞親王が皇太子を廃されると、真貞も備後権守に左遷される。承和11年(844年)国家に功労のある老臣であるとして仁明天皇が憐れんで、真貞は平安京に呼び戻される。諸学者は当代で『春秋公羊伝』を読解できるのは真貞のみであると言ったことから、この学問が廃れるのを防ぐために、真貞は特に命じられて大学で『春秋公羊伝』の講義を行ったという。翌承和12年(845年)2月20日自宅にて卒去。享年78。最終官位は散位従四位下。(善道真貞 フレッシュアイペディアより)
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織田信房 (小幡藩嫡子)から見た備後国
織田 信房(おだ のぶふさ、元禄16年(1703年)- 享保18年7月9日(1733年8月18日))は、上野小幡藩の第4代藩主・織田信就の長男。通称は仁十郎。官位は従五位下備後守。正室は仙石政明の娘・勝姫(のち離婚)。(織田信房 (小幡藩嫡子) フレッシュアイペディアより)
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山田春城から見た備後国
弘仁15年(824年)大学に入学し、未成人であったが、講堂の後ろで晋書の聴講に参加したという。のちに、嵯峨上皇が皇子・源明を官吏登用試験に挑ませるために、大学生の学友を求めた際、春城はこれに応じ、春城と源明は同じ部屋で諸子百家を共に学んだという。のちに、勉学の資とするために、丹波権博士の官職を授けられた。承和9年(842年)嵯峨上皇が崩御し春城は悲嘆に暮れるが、春城の本業を遂げさせるために、仁明天皇は春城に校書殿に侍することを命じ、朝廷で保管している書籍を閲覧させるとともに、日々の生活のために内蔵寮の物資を与えたという。備後少目・備中権少目を経て、承和12年(845年)対策に及第し、翌承和13年(846年)少外記に任ぜられる。(山田春城 フレッシュアイペディアより)