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内藤大助から見た中華人民共和国
2009年5月26日、当時WBC世界フライ級10位の熊朝忠(中国)を相手に5度目の防衛戦。当初は中国・上海での対戦予定であったが、現地のイベント代行業者の不手際によって、直前になり現地での開催を断念。急遽、東京のディファ有明において、前座試合無しのワンマッチ興行、試合チケットは全て当日会場で発売という異例の形で開催された。試合は150cmの熊に再三懐に潜り込まれ、その都度バッティングを受けるなどしてペースを掴めず、終始苦戦を強いられた。5Rに偶然のバッティングで右瞼をカット、6Rにはダウン、更に11Rには口内をカットして出血し、熊の猛攻に防戦一方となった場面もあった。しかし、内藤はパンチを的確に当ててポイントを稼ぎ、全体的には優位に試合を進め、3-0の判定勝ちで5度目の王座防衛に成功した。(内藤大助 フレッシュアイペディアより)
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内藤大助から見た横浜さくらボクシングジム
2004年6月6日、日本フライ級王者の中野博(畑中)に挑戦。内藤は中野から2度のダウンを奪うなど一方的に攻め続け、6Rに偶然のバッティングによる負傷判定勝ちを収め、日本王座を獲得。同年10月11日、小嶋武幸(横浜さくら)を相手に初防衛戦を行い、日本タイトルマッチ史上最短となる1R24秒KO勝ちを収めた。(内藤大助 フレッシュアイペディアより)
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内藤大助から見たアルバイト
北海道虻田郡豊浦町生まれ。母親は、大助を身ごもっている時に夫と離婚しており、アルバイトで大助と4歳上の長男を養った。後に小さな民宿を始める。一家の生活は楽ではなかったものの、学校での大助少年はマラソン大会や運動会の徒競走で必ず1位になるなど運動神経抜群で、クラスでは人気者だった。中学では卓球部に所属。しかし、中学2年になるといじめの標的にされるようになる。クラス替えがきっかけともされたが、はっきりとした原因は本人にも分からないという。生活が苦しかったため、兄のお下がりの制服やスキーウェアなどを着ていけば「ボンビー(貧乏)」というあだ名で馬鹿にされたり、給食のおかずや貴重品を取り上げられたり、教師に見つからないよう人目につかない場所で暴行も受けた。内藤は胃潰瘍を患うまでに追い詰められるも、教師からはいじめには気付いてもらえず、気の強い母親への相談も諦め、1人でいじめに耐える中学生活を送った。(内藤大助 フレッシュアイペディアより)
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内藤大助から見た関口宏の東京フレンドパークII
2007年末、トレーニングの一環として大相撲の宮城野部屋を訪れ、同部屋所属の第69代横綱・白鵬と稽古を行う。翌年2月、今度は白鵬が内藤の所属する宮田ジムを訪れ、サンドバッグ叩きやミット打ちなどを練習、親交を深めた。これが縁で、TBSの『関口宏の東京フレンドパークII』へ共に出演した。(内藤大助 フレッシュアイペディアより)