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平時忠から見た出雲国
この頃から時忠は清盛の思惑から外れ、独自の動きを見せるようになる。平治の乱の後、政治の主導権を巡って後白河上皇と二条天皇が激しく対立する中で、応保元年(1161年)9月3日、妹の滋子が後白河上皇の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産した。その直後の15日、時忠は清盛の弟・平教盛とともに二条天皇により解官された。『愚管抄』によれば「ユユシキ過言」をしたのが原因であったという。翌年6月、院近臣・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛したとして解官されるが、時忠も陰謀に関わったとして23日に出雲国に配流された。教盛が短期間で赦免されたのに対してはるかに重い処罰であり、二条天皇親政派が時忠を強く警戒していたことがうかがわれる。この事件において清盛は二条天皇支持の立場をとり、時忠に手を差し伸べることはなかった。(平時忠 フレッシュアイペディアより)
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日野衆から見た出雲国
日野氏は『源平盛衰記』に郡司として名前が上げられ平安時代末期にはすでにこの地にあったとされるが、その他の諸氏は主に室町時代にこの地に勢力を張ったと思われる。出自が記録として明らかなのは山名氏と蜂塚で、日野山名氏は弘和/永徳年代に室町幕府侍所頭人、丹後・出雲・隠岐守護を務めた山名義幸が職を辞してこの地に入り日野屋形号を名乗った事を始めとする。蜂塚氏は『鳥取県神社誌』によれば文明16年(1484年)に初代・蜂塚安房守が江美城に入った事が始めとある。また、進氏は山名氏のもとで伯耆衆の一員になり応仁の乱に参加、その功によって進美濃守は南条氏と共に伯耆守護代に任じられている。これら諸氏が日野川に沿った街道や利水などの利害調整の為に日野山名氏を筆頭に衆派を形成したのが始りと思われる。(日野衆 フレッシュアイペディアより)
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