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学問料から見た加賀国
ところが、その主たる面積を占めていた加賀国の旧大伴家持没官領が、藤原種継暗殺事件関係者の名誉回復に伴い、当時の官界の実力者伴善男の要求で伴氏(旧大伴氏)に返還されることとなった。しかも、応天門の変によって伴善男が流罪となり、再度当該地が没官された後に大学寮ではなく、穀倉院に編入されたことから経営基盤を失った大学寮と新たに当該地を得た穀倉院の間で対立が生じた。更に藤原氏などの有力諸氏が自己の氏族に属する学生のために大学別曹を設置して生活を支援したことから、大学寮に替わって大学別曹の支援を受けた有力紙族の子弟と生活支援を失った他氏の学生の間に一種の「格差」が生じるようになっていった。三善清行が『意見十二箇条』によって勧学田の復興を唱えたのはそんな時期のことであった。(学問料 フレッシュアイペディアより)
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