-
上杉謙信から見た加賀国
内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。(上杉謙信 フレッシュアイペディアより)
-
雄山神社から見た加賀国
登拝者は、途中の河原で石を1?3個拾って行き、峰本社の傍らに供え、その前庭に敷いたが、『富山県史 民俗編』では、この習俗は立山と加賀の白山が背比べをしたとき、立山が馬のクツ(馬わらじ)の厚さだけ低かったので、立山を高くするために石を持って行くのだとする里人の伝承を紹介している。しかし同書では、伊勢神宮の「白石持ち」神事を神領民が行うこと、芦峅寺若宮(中宮祈願殿)の斎庭にきれいな川原石が敷き詰められていること、朝日町でお盆に清浄な浜辺の石3個を「オケソク」と言って墓に供える事などを例にあげ、神と祖霊の違いはあるものの、丸石に神が宿るとか、もっと別の呪力があるものとして、立山の神に捧げた物ではないかと考察している。(雄山神社 フレッシュアイペディアより)
-
越前一向一揆から見た加賀国
ついに、一揆衆はこのような長繁の横暴な振る舞いに怒り、彼と手を切ることとした。そして、あろうことか加賀国から一向一揆の指導者である七里頼周や杉浦玄任を招き、自らの棟梁としたのである。杉浦玄任は坊官でありながら越中において、総大将として一揆軍を率い、上杉謙信と戦った武将であった。尻垂坂の戦いでは謙信に敗れたが、五福山や日宮城で上杉方に勝利を収めていた他、朝倉義景とも戦っており、実績も十分であった。一揆衆の中に相当数の浄土真宗本願寺派(一向宗)の門徒がおり、彼らの意見が通ったのである。こうして富田長繁を大将とする土一揆は、そのまま七里頼周を大将とする一向一揆に進展した。(越前一向一揆 フレッシュアイペディアより)