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元禄文化から見た加賀国
芭蕉はまた、武士の身分を捨てて各地を旅し、門人らと交流しながら、自然と人間を鋭く見つめて『奥の細道』『野ざらし紀行』『笈の小文』『更科紀行』などのすぐれた紀行文もあらわした。ことに「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」ではじまる『奥の細道』は名文として知られている。かれの門人の多くは新興の商人や裕福な農民、武士、僧侶・神官などであり、こうした地方文化人の支持を集めて蕉風俳諧は全国的なひろがりをみた。とくに加賀は蕉風王国とよばれるほど蕉風俳諧のさかんな土地柄であった。尾張もまた俳諧のさかんな土地で、西鶴を師とあおぐ談林派の俳人が100名もおり、芭蕉が名古屋を訪れると蕉風もさかんとなった。(元禄文化 フレッシュアイペディアより)
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月岡野の戦いから見た加賀国
1578年3月、上杉謙信が急死し、その後継者争い「御館の乱」が勃発すると、織田信長はこれを好機と捉え、4月には上杉氏勢力下にある越中国を攻略すべく、越中出身で越中守護代家の由緒をもつ神保長住に佐々長穐らの兵をつけて飛騨口から侵攻させた。当時北陸侵攻に当たっていた柴田勝家は加賀の一向一揆に手間取っており、能登も上杉方が保持していた。そこで、飛騨口から越中を攻略することによってこれらの上杉軍と越後との連絡を絶ち、分断撃破する戦略があったと思われる。長住は神保旧臣や国人衆を味方につけて砺波郡の増山城を攻略するなど一定の成果をあげたが、越中国内は依然として上杉氏優勢であり、9月には織田信忠付の重臣(側近)斎藤利治率いる濃尾の兵が援軍として越中戦線に送られた。(月岡野の戦い フレッシュアイペディアより)