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花房銀子から見た加賀まりこ
1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキーのための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、花房は設立と同時に入社、同年に公開された根岸東一郎監督の『無鉄砲選手』等に出演した。1936年(昭和11年)、加賀まりこの父、加賀四郎の加賀ブラザースプロダクションが製作した鈴木傳明監督の『鋪道の囁き』に出演しているが、同作は当時は公開されず、第二次世界大戦終了直後の1946年(昭和21年)6月27日に『思い出の東京』と改題されて公開されている。大戦中の1942年(昭和17年)に製作・公開された長尾史録監督の『大いなる行進』以降、出演記録が見当たらない。その後の消息は不明である。没年不詳。(花房銀子 フレッシュアイペディアより)
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川口浩 (俳優)から見た加賀まりこ
1962年(昭和37年)に大映退社後は、実業家への転身を図る。不動産管理会社である株式会社川口エンタープライズを設立しアメリカ西海岸などへ集合住宅の視察へ赴いた。父・松太郎邸の広大な敷地を利用し総工費7億円を費やし1964年(昭和39年)10月1日に開業した自宅兼デラックス賃貸及び分譲マンションである川口アパートメントの運営を執り行った。同アパートメントの入居者として1960年代には栗原玲児、藤村有弘、水谷八重子・水谷良重親子、1970年代に差し掛かる頃には加賀まりこ、安井かずみ、また1972年(昭和47年)より千葉真一・野際陽子夫妻が住んだことで知られる。(川口浩 (俳優) フレッシュアイペディアより)
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