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  • 蔵玉錦敏正

    蔵玉錦敏正から見た北の湖敏満北の湖敏満

    1976年9月場所に10勝5敗で十両優勝し、翌11月場所で新入幕。2桁黒星で十両陥落を3度繰り返し、1978年1月場所より故郷の名山・蔵王山に因んだ「蔵玉錦」の四股名に改めた。画数が悪いので「王」を「玉」に変えたが、これを「ざおうにしき」と読むのに違和感を受ける声も多く、問い合わせが殺到したという。新入幕から3年半ほど経過した1979年3月場所から幕内に定着した。1981年9月場所では、北の湖より初金星を挙げる活躍をするも負け越し、三役昇進にはあと一歩及ばなかった。なお、大関戦では3勝(貴ノ花に2勝、増位山に1勝)している。貴ノ花を得意としており、対戦成績は2勝2敗である。貴ノ花の現役最後の一番となった一戦(1981年1月場所6日目)では、一気の押しで勝利している。蔵玉錦敏正 フレッシュアイペディアより)

  • 一門 (相撲)

    一門 (相撲)から見た北の湖敏満北の湖敏満

    2002年に北の湖が理事長に就任し、以降、境川改革のほとんどを元に戻すと共に、2004年から2008年まで再度談合が行われ、以下のように理事枠が各一門に割り当てられた。一門 (相撲) フレッシュアイペディアより)

  • 多賀竜昇司

    多賀竜昇司から見た北の湖敏満北の湖敏満

    1983年11月場所には関脇に昇進したものの5勝10敗と大きく負け越した。1984年5月に母が交通事故で亡くなってからは、せめてもの供養にとそれまで以上に懸命に土俵を勤め、蔵前国技館で行われた最後の本場所となった同年9月場所では13勝2敗の成績を挙げて見事に平幕優勝を飾った。この場所では敢闘賞と技能賞も同時に受賞している。さらに2場所後、両国国技館の杮落としとなった1985年1月場所では横綱・北の湖と2日目に対戦して初の金星を挙げた。北の湖はこの敗戦を最後に引退し、横綱・北の湖の現役最後の対戦相手としても名を残した。多賀竜昇司 フレッシュアイペディアより)

  • 横綱土俵入り

    横綱土俵入りから見た北の湖敏満北の湖敏満

    せり上がるときに左手を胸の近くに当てて右手を伸ばす土俵入りで、大多数の横綱がこちらを選択している。2代梅ヶ谷藤太郎が完成したとされ、以降、栃木山守也・双葉山定次・大鵬幸喜・北の湖敏満・千代の富士貢といった大横綱も多くこの雲龍型である。平成以降では曙太郎・貴乃花光司・武蔵丸光洋・朝青龍明徳が選択しているが、4人は全て幕内優勝を10回以上果たし、横綱の地位も4年以上に渡って務めていた。横綱土俵入り フレッシュアイペディアより)

  • 玉ノ富士茂

    玉ノ富士茂から見た北の湖敏満北の湖敏満

    貴ノ花に対しては強く12勝11敗と勝ち越している。昭和53年1月場所から7月場所にかけては4連勝もした。同じ大関の旭國には6勝11敗で、昭和52年11月場所まで1勝8敗(1勝は不戦勝で、実質の勝利は無し)と全く勝てなかったが、上位に定着し出した昭和53年1月場所から昭和54年9月場所まで5勝3敗と勝ち越している。大関には互角以上に渡り合ったが横綱には分が悪く特に北の湖には初顔から19連敗、4年近く勝てなかったが昭和54年9月場所でようやく初勝利を挙げた。最終的な対戦成績は2勝23敗。また2代若乃花にも分が悪く、最終的な対戦成績は3勝23敗で、横綱昇進後の若乃花には1度も勝つことが出来なかった。玉ノ富士茂 フレッシュアイペディアより)

  • 荒勢永英

    荒勢永英から見た北の湖敏満北の湖敏満

    右四つからの激しいがぶり寄りが特徴で、もみ上げも個性的でいごっそうを連想させる人気力士の1人であった。しかし横綱・北の湖に弱く、27連敗を記録した。また、立合いを合わせるのが下手で、「待った」の常連としてよく指弾された。1975年3月場所で敢闘賞を受賞した時には、立合いの悪さから受賞を見送るべきだという意見が三賞選考委員会の席上で出た。また1976年7月場所8日目に若三杉(のちの横綱・2代若乃花)と対戦した時は「待った」を8回も繰り返し、勝負審判が土俵上に上がって両力士を注意する事態も起きた。その他、これより三役のそろい踏みの時にも西方の扇の要の位置にあって後ろが見えなかったためか、あっさりと3回四股を踏んだ後振り返ると後方の力士はまだ2回目の四股にかかっていたということもあった。荒勢永英 フレッシュアイペディアより)

  • 1982年のスポーツ

    1982年のスポーツから見た北の湖敏満北の湖敏満

    9月21日 - 大相撲の北の湖敏満、史上1位となる通算873勝達成1982年のスポーツ フレッシュアイペディアより)

  • 巨砲丈士

    巨砲丈士から見た北の湖敏満北の湖敏満

    1979年(昭和54年)3月場所で新入幕を果たし、大鵬部屋第1号の幕内力士となった。その後も相撲巧者ぶりを見せて、1980年(昭和55年)3月場所で新小結、1981年(昭和56年)5月場所で関脇に昇進した。大物食いとしても知られ、金星は第54代横綱輪島から第59代横綱隆の里までの計6横綱(輪島、北の湖、若乃花、三重ノ海、千代の富士、隆の里)から10個を獲得した(なお1984年(昭和59年)9月場所、6日目千代の富士、7日目隆の里と二日続けての金星をあげている)。巨砲丈士 フレッシュアイペディアより)

  • 龍虎勢朋

    龍虎勢朋から見た北の湖敏満北の湖敏満

    しかし、不屈の闘志と努力で幕下優勝(1972年9月場所、7戦全勝)、十両優勝(1973年3月場所、11勝4敗)を重ね、1973年7月場所に再入幕。1974年9月場所では、新横綱の北の湖から通算2個目の金星を獲得。1975年1月場所で三役にカムバックした(破門などのブランクなしで幕下へ降下した元三役の三役復帰は史上初)。龍虎勢朋 フレッシュアイペディアより)

  • 若嶋津六夫

    若嶋津六夫から見た北の湖敏満北の湖敏満

    1982年(昭和57年)1月場所で西前頭4枚目で横綱北の湖から初金星を獲得、翌3月場所でも北の湖から2場所連続で金星を獲得するなど12勝3敗の成績を挙げ技能賞を受賞。5月場所では小結を飛び越えて関脇昇進。同7月に一度小結に落ちたが10勝を挙げ関脇に復帰、同9月場所と11月場所で2場所連続で12勝3敗の好成績をあげ、大関昇進の目安となる直近3場所合計34勝として1983年(昭和58年)1月場所で大関に昇進。高卒入門での大関昇進は初めてだった。若嶋津六夫 フレッシュアイペディアより)

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