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  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た高見山大五郎

    入門時にちゃんこで丼飯8杯・うどん大盛り2杯・お茶漬け2杯を食べて寝た翌朝、「空腹で眠れなかった」と語ったほどの並外れた大食漢であった。その大食漢ぶりによって入門から新弟子検査に至るまでの3週間で20kgの増量を果たした。本人はこの時の様子について「普通は相撲部屋に来たら、生活環境が変わったせいで痩せるものだけど、私の場合、まだ13歳ですから。周りの様子もよくわからなくて、たぶん神経を使わなかったんだろうと思いますね」と振り返っている。また高見山の著書によると両国中学時代の北の湖は1限目に部屋から渡された弁当を間食し、2限目以降は同級生から強引な形で次々と弁当を貰い受けて食べていたという。ただ、横綱になる頃には食事量は少なくなり、米をどんぶり3杯程度にとどめていた。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た琴風豪規

    入門当時、北の湖の他にも中学校在学中に入門し、学校に通いながら土俵に上がる力士は多くいたが、社会通念上問題があるとされた。北の湖が大活躍したため特に話題になったとも言われる。当の北の湖本人は三保ヶ関から「中学は義務教育だからしっかり通いなさい」と言われて通学を怠らずに大相撲生活を送っていたが1971年11月場所中に日本相撲協会へ正式に通達が出されたため、協会はすぐに既に入門している中学生力士たちを帰郷させ、入門条件に「中学卒業 (義務教育終了) 後でなければ入門できない」という条項を加えた。場所後には中学生力士の採用禁止を正式決定している。ちなみに北の湖以降も、後の琴風が中学在学中から土俵に上がっている。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た隆の里俊英

    しかし、進退を賭して臨むこととなった1983年9月場所は初日から4連勝したが、その相撲で大ノ国を破った際に脚を故障、再び途中休場した。事情はどうであれ「休場=即引退」という状況の11月場所は11勝4敗、終盤まで優勝争いに加わって引退危機を脱したが、1984年1月場所では8勝7敗に終わり、場所後の横綱審議委員会でも「気の毒で見ていられない」「引退したほうが良い」などの声が相次いだ。3月場所は10勝5敗と、かつてなら批判に晒されたこの成績も「良くやった」と見る向きが多かったことからも、北の湖に対する評価の程が理解できる。ついに第一人者の座を千代の富士・隆の里に明け渡し、完全に世代交代かと思われていた5月場所、久々の優勝を15戦全勝で達成した。この場所13日目に弟弟子の北天佑が隆の里を下した瞬間に北の湖の優勝が決定したが、控えに座る北の湖に対して北天佑が土俵上で微笑むと、北の湖が笑みを返したシーンは特に有名。結果的にこれが自身最後の優勝となった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た増位山太志郎

    1967年1月場所に9代三保ヶ関の長男であり、後に大関となる増位山 (後に10代三保ヶ関) とともに初土俵を踏む。四股名の「北の湖」は、故郷にある洞爺湖に因んで9代三保ヶ関が命名した。湖を「うみ」と読ませたきっかけは水上勉の小説「湖の琴」 (うみのこと) からで、同作が東映で映画化された時の宣伝ポスターを師匠が目にし、「湖 (みずうみ) を『うみ』と読ませるのか」と驚き、そこから着想を得たという。ちなみに北の湖は改名の多い角界においては、初土俵から引退まで一度も四股名を変えたことのない珍しい力士だった。下位時代には四股名の読みが定着しておらず、人によっては「きたのこ」と呼ぶことがあった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た金剛正裕

    北の湖は、負けると騒がれた。殊勲者として昇進後前半では金剛・黒姫山・麒麟児が挙げられる。後半になると栃赤城・若嶋津・太寿山などがいる。若嶋津とは左がっぷり四つから投げの打ち合い、あるいは巻き替え合い。太寿山には引き技をよく食らい、一度は吊り出しに敗れた。また、現役後半の好敵手千代の富士とは、横綱に昇進してからは分が悪かった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た武蔵丸光洋

    通算連続勝ち越し記録:50場所(武蔵丸の55場所・白鵬の51場所に次いで歴代3位、1973年7月場所 - 1981年9月場所)北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た北勝海信芳

    2015年7月場所中の7月17日に再び体調不良を訴え、名古屋から帰京し再入院。「両側水腎症」と診断され手術、同年8月8日に一旦退院したものの、腰痛の悪化などの理由により、翌9月場所の初日前日の土俵祭、及び初日・千秋楽恒例の理事長挨拶を欠席。代役として八角事業部長(元第61代横綱・北勝海)が務めていた。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た鈴木大地

    2015年12月22日、両国国技館にて北の湖の日本相撲協会葬が執り行われ、鈴木大地スポーツ庁長官など各界からの会葬者が北の湖の霊に哀悼の誠を捧げた。墓所は神奈川県川崎市の川崎大師(平間寺)に建立された。2017年10月1日、墓所の川崎大師の境内に建てられた自身の銅像の除幕式が行われた。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た臥牙丸勝

    師匠として、6人の関取を輩出している (内弟子・他部屋からの移籍を含むと部屋自体からの関取は14人) 。2012年3月場所で臥牙丸が小結となり、部屋念願の三役力士が誕生した。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た朝青龍明徳

    先輩横綱である輪島は最高の好敵手であり、「輪湖 (りんこ) 時代」を築いた。輪島との通算成績は21勝23敗でほぼ互角で、優勝は両者合わせて38回 (柏鵬の37回を上回る) 。特に1975年9月 - 1978年1月までの15場所間の千秋楽結びの一番は全て「輪島 - 北の湖」という対戦で、千秋楽の結び対戦連続回数15回は史上1位である (2位は白鵬 - 日馬富士の10回、3位は朝青龍 - 白鵬の7回) 。この対戦は、右上手十分の北の湖に対して、輪島は左下手投げを得意としたこともあり、立合いからガップリ四つの横綱同士の力相撲となることが常だった。ちなみに、輪島 - 北の湖による千秋楽結び対戦回数は22回あり、曙 - 貴乃花の27回に次いで、史上2位。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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