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  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た豊山広光

    引退直前に数回対戦したものを除くと、現役時代に北の湖に勝ち越した力士は少ない。ほとんどの力士には大きく勝ち越し、完封もいる。典型的なものは金城 (栃光) で、29戦全勝を達成している。金城は取り口にムラがあったと評されるが、関脇まで昇進して横綱と29回も当たる番付を保持しており、決して弱い力士ではない。その他、豊山 (長浜) に対して21戦全勝、蔵間に対しても17戦全勝と圧倒しているが、蔵間の場合は長い相撲の末で辛勝していたケースが多かった。三重ノ海が全盛期の北の湖に何とか勝とうと猫騙しをしたことも話題になったが、奇策は通じず三重ノ海は敗れている。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た多賀竜昇司

    1985年1月場所、こけら落としとなった両国国技館の土俵に現役で臨んだが、ケガが完治せずに土俵に上がれる身体ではなかった。それでも、国技館建設に携わって開館を心待ちにしていた春日野から「晴れの舞台に横綱が休場することはできない。潔く散る覚悟で出よ」との言葉を受けて強行出場。国技館での北の湖は、初日の旭富士、2日目の多賀竜と相次いで全く良い所なく敗れて2連敗。所有していた年寄名跡・清見潟を他の力士に貸していたため、横綱特権での5年時限の年寄襲名前提で引退届を提出した(当時は優勝32回の大鵬しか一代年寄の例がなかった)。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た若乃花幹士 (2代)

    1974年と1975年は優勝回数が2回にとどまっておりまだ全盛期にはなく、1976年9月場所は平幕の魁傑に優勝を許している。それでも、この場所では14勝1敗で平幕優勝した力士に横綱として全勝を阻止する星を付けるという、優勝制度発足以降初となる記録を達成している1977年3月場所は全勝の北の湖を1敗の輪島が追いかける展開だったが、14日目の結び前に輪島が敗れ、結びで北の湖が若三杉に勝利して優勝を決めた瞬間、館内には不満や抗議の意味で座布団が舞う異常な事態となった。強い横綱が敗れて金星を提供した際に、勝った下位力士を讃える意味で座布団が舞うことは多いが、横綱が勝って座布団が舞うというケースは極めて異例だったが、北の湖は動じずに千秋楽も勝利して自身初の全勝優勝を果たしている。これ以降は5場所連続優勝 (1978年) を果たすなど「憎らしいほど強い横綱」と言われるようになり、敗れると観衆が湧いた。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た金城興福

    引退直前に数回対戦したものを除くと、現役時代に北の湖に勝ち越した力士は少ない。ほとんどの力士には大きく勝ち越し、完封もいる。典型的なものは金城 (栃光) で、29戦全勝を達成している。金城は取り口にムラがあったと評されるが、関脇まで昇進して横綱と29回も当たる番付を保持しており、決して弱い力士ではない。その他、豊山 (長浜) に対して21戦全勝、蔵間に対しても17戦全勝と圧倒しているが、蔵間の場合は長い相撲の末で辛勝していたケースが多かった。三重ノ海が全盛期の北の湖に何とか勝とうと猫騙しをしたことも話題になったが、奇策は通じず三重ノ海は敗れている。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た旭富士正也

    1985年1月場所、こけら落としとなった両国国技館の土俵に現役で臨んだが、ケガが完治せずに土俵に上がれる身体ではなかった。それでも、国技館建設に携わって開館を心待ちにしていた春日野から「晴れの舞台に横綱が休場することはできない。潔く散る覚悟で出よ」との言葉を受けて強行出場。国技館での北の湖は、初日の旭富士、2日目の多賀竜と相次いで全く良い所なく敗れて2連敗。所有していた年寄名跡・清見潟を他の力士に貸していたため、横綱特権での5年時限の年寄襲名前提で引退届を提出した(当時は優勝32回の大鵬しか一代年寄の例がなかった)。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た若乃花幹士 (初代)

    2013年5月16日には満60歳の還暦を迎え、同年5月場所後の6月9日に両国国技館で、記念パーティー開催と赤い綱を締めての還暦土俵入りを披露した。なお、土俵入りでの太刀持ちは九重親方 (第58代横綱千代の富士) 、露払いは貴乃花親方 (第65代横綱貴乃花) と、北の湖同様幕内20回以上優勝した元大横綱がそれぞれ務めている。また、日本相撲協会の理事長在任中に還暦土俵入りを行ったのは、1988年4月の二子山親方 (第45代横綱・初代若乃花) 以来25年ぶり4人目。だが、雲龍型土俵入りのせり上がりを見せる直前、両足をぐらつかせてしまい周囲からどよめきの声を上げる場面があった。さらに還暦土俵入りに際して、直腸癌を患っていたことも明らかになった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た大乃国康

    しかし、進退を賭して臨むこととなった1983年9月場所は初日から4連勝したが、その相撲で大ノ国を破った際に脚を故障、再び途中休場した。事情はどうであれ「休場=即引退」という状況の11月場所は11勝4敗、終盤まで優勝争いに加わって引退危機を脱したが、1984年1月場所では8勝7敗に終わり、場所後の横綱審議委員会でも「気の毒で見ていられない」「引退したほうが良い」などの声が相次いだ。3月場所は10勝5敗と、かつてなら批判に晒されたこの成績も「良くやった」と見る向きが多かったことからも、北の湖に対する評価の程が理解できる。ついに第一人者の座を千代の富士・隆の里に明け渡し、完全に世代交代かと思われていた5月場所、久々の優勝を15戦全勝で達成した。この場所13日目に弟弟子の北天佑が隆の里を下した瞬間に北の湖の優勝が決定したが、控えに座る北の湖に対して北天佑が土俵上で微笑むと、北の湖が笑みを返したシーンは特に有名。結果的にこれが自身最後の優勝となった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た杉山邦博

    2007年9月10日、東京相撲記者クラブ会友である杉山邦博の相撲取材証を、北の湖敏満名義で没収した。2007年7月から続いていた朝青龍の問題に関し、テレビ番組を通じて朝青龍の謝罪を求め、間接的に日本相撲協会を批判を展開したことが理由とされる。この件に関しては記者クラブが抗議し、他の報道機関からも「言論統制」と非難された。会友ではなく「相撲評論家」の肩書きだったのが問題だったとして、12日になって措置は撤回して取材証は杉山へ返還されたが、今後は「記者クラブに一任した上で」としたが、これからも同じような没収をする可能性にも触れたため、記者クラブとは溝が深まった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た柏戸剛

    先輩横綱である輪島は最高の好敵手であり、「輪湖 (りんこ) 時代」を築いた。輪島との通算成績は21勝23敗でほぼ互角で、優勝は両者合わせて38回 (鵬の37回を上回る) 。特に1975年9月 - 1978年1月までの15場所間の千秋楽結びの一番は全て「輪島 - 北の湖」という対戦で、千秋楽の結び対戦連続回数15回は史上1位である (2位は白鵬 - 日馬富士の10回、3位は朝青龍 - 白鵬の7回) 。この対戦は、右上手十分の北の湖に対して、輪島は左下手投げを得意としたこともあり、立合いからガップリ四つの横綱同士の力相撲となることが常だった。ちなみに、輪島 - 北の湖による千秋楽結び対戦回数は22回あり、曙 - 貴乃花の27回に次いで、史上2位。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た太寿山忠明

    1982年1月場所は13勝2敗で優勝したものの、次の3月場所は11勝4敗にとどまる。これ以降は足や腰の故障との戦いが続き、5月場所は途中休場、7月場所は初の全休。休場明けの9月場所は初日に大寿山に吊り出されるなど、全盛期には考えられない負け方で敗れた。その後は勝ち進んで立ち直ったかに見えたが、終盤に崩れて10勝5敗に終わった。11月場所と1983年1月場所は途中休場、さらに3月から7月場所にかけては3場所連続で全休。このように、休場の連続で並の横綱なら完全に引退に追い込まれているような状況にも関わらず、北の湖にはそれが許された。その理由として、長年に渡って相撲界を支えてきた功績を評されてのものだった。本人は現役にこだわった理由として「私の場合、若くして上がっているから、5年から6年の短い期間で辞めてしまったとしても、まだ26、27歳なんですよね。それじゃあ、ちょっと若過ぎますよね。どうしても30歳までは取りたい。何が何でも、という気持ちが強かったんです」と引退後のインタビューで明かしている。また「1981年 (昭和56年) に誕生した息子に自分の優勝した時の姿を見せて覚えさせたかったからだ」と述べている。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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