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  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た安藝ノ海節男

    立合いでは手を付ける仕草を見せるだけで全く手を付けない。中腰で低い重心から立合いかちあげるか、右上手を引いて、相手を吹き飛ばすかのように土俵外へ出すのが代表的な取り口。左四つに組み止めての右上手投げには威力があった。両廻しを充分に引きつけ、腰をよく落としての怒涛の寄り、巨腹に乗せた吊りも得意とし、相撲用語で言う「糞袋が重い」(腰が重い)という長所も手伝って地力の強さは際立った。一方で巻き替えが上手く、取り組みで常に多用したため、評論家からは「横綱の相撲としてはいかがなものか」と批判された。しかし、安芸ノ海には「あの巻き替えがあるから勝てるのだ」と絶賛されていた。右四つになっても右腕を返して腰を下ろせば盤石で、こうなったときの識者からの評価は高かった。突っ張りもあり、関脇までは突き押し相撲が主体だったが、足首を怪我してからは四つ相撲に改めた。右四つの力士に強く、金城に対して29戦全勝と圧倒していたことに関して本人は「オレは右四つ大好きだから」と語ったことがある。巨体ながら非常にスピードがあり、器用さも兼ね備え、その相撲には独特の躍動感があった。がっぷりに弱い上に指が短く上手が切られやすいため胸が合うと上手も取れずもがいてそのまま土俵を割る相撲が多く、太寿山や隆の里などがっぷりの得意な力士は特にこの弱点に付け込むことで北の湖戦で活躍した。廻しが固い力士を相手にする時に指の短さの不利が現れたが、一枚廻しになると廻しを握り付けてそのまま吊り上げるなど逆に怪力ぶりを十二分に活かすことができた。1980年7月場所の頃にはそれまでの左四つ一辺倒からなまくら四つへと変化。立合いもかち上げから下から掬うものへと変わっていった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た北天佑勝彦

    しかし、進退を賭して臨むこととなった1983年9月場所は初日から4連勝したが、その相撲で大ノ国を破った際に脚を故障、再び途中休場した。事情はどうであれ「休場=即引退」という状況の11月場所は11勝4敗、終盤まで優勝争いに加わって引退危機を脱したが、1984年1月場所では8勝7敗に終わり、場所後の横綱審議委員会でも「気の毒で見ていられない」「引退したほうが良い」などの声が相次いだ。3月場所は10勝5敗と、かつてなら批判に晒されたこの成績も「良くやった」と見る向きが多かったことからも、北の湖に対する評価の程が理解できる。ついに第一人者の座を千代の富士・隆の里に明け渡し、完全に世代交代かと思われていた5月場所、久々の優勝を15戦全勝で達成した。この場所13日目に弟弟子の北天佑が隆の里を下した瞬間に北の湖の優勝が決定したが、控えに座る北の湖に対して北天佑が土俵上で微笑むと、北の湖が笑みを返したシーンは特に有名。結果的にこれが自身最後の優勝となった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た北葉山英俊

    「北海道南部に怪童あり」との噂を聞きつけた多くの相撲部屋から熱心に勧誘され、中学へ入学した頃には引退したばかりの北葉山が自身の元を訪れたこともあったが、女将が手編みの靴下を送ってくれたことで三保ヶ関部屋に入門。母は何度も入門を反対し、根負けして入門を認めた際には「強くなるまで帰ってくるな」と言った。後年本人は「現役時代は、あの言葉があったから、がんばれました。どんな時でも耐えることができたんです」と明かしており「うちの母ちゃんは、えらかったよ。13歳の息子に帰ってくるなって言えたんだよ。自分が子供を持つようになって分かるけど、とてもじゃないけど自分の息子に“帰ってくるな”なんて言えないよ。あの時、どんな思いでオレに、あの言葉を言ったのかと思うと、すごいなぁって思うよ。相当な覚悟がなければ言えませんよ」と感想を述べてもいる。北海道を出発した際には「東京に行きたいなー」「飛行機に乗れてうれしいなー」などと思っていたが、飛行機の中から昭和新山や洞爺湖を眺めた時、飛行機から降りたくなったという。入門に際して北海道から上京して墨田区立両国中学校へ転校した。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た栃赤城雅男

    北の湖は、負けると騒がれた。殊勲者として昇進後前半では金剛・黒姫山・麒麟児が挙げられる。後半になると栃赤城・若嶋津・太寿山などがいる。若嶋津とは左がっぷり四つから投げの打ち合い、あるいは巻き替え合い。太寿山には引き技をよく食らい、一度は吊り出しに敗れた。また、現役後半の好敵手千代の富士とは、横綱に昇進してからは分が悪かった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た黒姫山秀男

    北の湖は、負けると騒がれた。殊勲者として昇進後前半では金剛・黒姫山・麒麟児が挙げられる。後半になると栃赤城・若嶋津・太寿山などがいる。若嶋津とは左がっぷり四つから投げの打ち合い、あるいは巻き替え合い。太寿山には引き技をよく食らい、一度は吊り出しに敗れた。また、現役後半の好敵手千代の富士とは、横綱に昇進してからは分が悪かった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た麒麟児和春

    北の湖は、負けると騒がれた。殊勲者として昇進後前半では金剛・黒姫山・麒麟児が挙げられる。後半になると栃赤城・若嶋津・太寿山などがいる。若嶋津とは左がっぷり四つから投げの打ち合い、あるいは巻き替え合い。太寿山には引き技をよく食らい、一度は吊り出しに敗れた。また、現役後半の好敵手千代の富士とは、横綱に昇進してからは分が悪かった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た千代の山雅信

    1953年 (昭和28年) 5月16日、有珠郡の農業協同組合職員の家で8人きょうだいの7番目、四男として誕生した。奇しくもこの日はNHKによって初めてテレビの大相撲中継が行われた日であった。当時は同じ北海道松前郡出身で第41代横綱だった千代の山の全盛期であった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た日本相撲協会

    北の湖 敏満 (きたのうみ としみつ、1953年5月16日 - 2015年11月20日)は、北海道有珠郡壮瞥町出身の元大相撲力士。第55代横綱。本名は小畑 敏満(おばた としみつ)。血液型はAB型。元日本相撲協会理事長(第9代、第12代)。息子は俳優の北斗潤。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見たウイスキー

    大の酒好きであり、アイスペールにウイスキーやブランデーを注いで仲間たちと回し飲みすることが好きであった。当時の角界の風潮があったにせよ未成年飲酒をしていたとも伝わっており、成人の日に感想を聞かれて「俺、今日から酒を止める」と話したという逸話は有名である。横綱昇進時にも酒を控えるように横審から注文を付けられたという話が残っている。ただし、晩年は持病もあって体調に気を遣っていたため、若い頃より酒量は大幅に減少していた。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た文部科学省

    2007年、時津風部屋で序ノ口力士が時津風や兄弟子から集団リンチを受けて死亡した時津風部屋力士暴行死事件が起きたことを受けて、文部科学省は日本相撲協会と北の湖に対し、事件の経緯や隠蔽工作の有無などについての説明を求めた。北の湖は9月29日に文部科学省を訪れて経緯を説明するとともに、協会の管理に不備があったことを認め、協会を代表して渡海紀三朗文部科学大臣に謝罪した。10月5日には時津風を解雇した。協会各部に対しては事件の真相究明と再発防止、そして過去に類似した事件がなかったかどうかについての調査を指示、さらに「再発防止検討委員会」を設置した。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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