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    北の湖敏満から見た両国国技館

    1985年1月場所、こけら落としとなった両国国技館の土俵に現役で臨んだが、ケガが完治せずに土俵に上がれる身体ではなかった。それでも、国技館建設に携わって開館を心待ちにしていた春日野から「晴れの舞台に横綱が休場することはできない。潔く散る覚悟で出よ」との言葉を受けて強行出場。国技館での北の湖は、初日の旭富士、2日目の多賀竜と相次いで全く良い所なく敗れて2連敗。所有していた年寄名跡・清見潟を他の力士に貸していたため、横綱特権での5年時限の年寄襲名前提で引退届を提出した(当時は優勝32回の大鵬しか一代年寄の例がなかった)。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た平間寺

    2015年12月22日、両国国技館にて北の湖の日本相撲協会葬が執り行われ、鈴木大地スポーツ庁長官など各界からの会葬者が北の湖の霊に哀悼の誠を捧げた。墓所は神奈川県川崎市の川崎大師(平間寺)に建立された。2017年10月1日、墓所の川崎大師の境内に建てられた自身の銅像の除幕式が行われた。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た農業協同組合

    1953年 (昭和28年) 5月16日、有珠郡の農業協同組合職員の家で8人きょうだいの7番目、四男として誕生した。奇しくもこの日はNHKによって初めてテレビの大相撲中継が行われた日であった。当時は同じ北海道松前郡出身で第41代横綱だった千代の山の全盛期であった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た江東区

    現役時代に所属していた三保ヶ関部屋には、既に三保ヶ関の長男である増位山太志郎が部屋の後継者となることが暗黙の了解となっており、北の湖も自身の抜群の実績と人柄が評価され、現役引退後の独立と新部屋創設は規定路線とされていた。当人やその周囲は、大坂相撲ゆかりで三保ヶ関とも縁のある小野川の襲名と小野川部屋再興の意向を持っていたが、前述したとおり現役時の実績から一代年寄「北の湖」を贈られ、これを受け入れて北の湖部屋を創設。北の湖部屋は同じく一代年寄である大鵬の「大鵬部屋」 (現・大嶽部屋) と同じ江東区清澄に50mほどの距離で開かれ、地元住民からはこの両部屋が面する通りを「横綱通り」、もしくは「一代年寄通り」と呼び習わされた。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た座布団の舞

    1974年と1975年は優勝回数が2回にとどまっておりまだ全盛期にはなく、1976年9月場所は平幕の魁傑に優勝を許している。それでも、この場所では14勝1敗で平幕優勝した力士に横綱として全勝を阻止する星を付けるという、優勝制度発足以降初となる記録を達成している1977年3月場所は全勝の北の湖を1敗の輪島が追いかける展開だったが、14日目の結び前に輪島が敗れ、結びで北の湖が若三杉に勝利して優勝を決めた瞬間、館内には不満や抗議の意味で座布団が舞う異常な事態となった。強い横綱が敗れて金星を提供した際に、勝った下位力士を讃える意味で座布団が舞うことは多いが、横綱が勝って座布団が舞うというケースは極めて異例だったが、北の湖は動じずに千秋楽も勝利して自身初の全勝優勝を果たしている。これ以降は5場所連続優勝 (1978年) を果たすなど「憎らしいほど強い横綱」と言われるようになり、敗れると観衆が湧いた。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見たアイスペール

    大の酒好きであり、アイスペールにウイスキーやブランデーを注いで仲間たちと回し飲みすることが好きであった。当時の角界の風潮があったにせよ未成年飲酒をしていたとも伝わっており、成人の日に感想を聞かれて「俺、今日から酒を止める」と話したという逸話は有名である。横綱昇進時にも酒を控えるように横審から注文を付けられたという話が残っている。ただし、晩年は持病もあって体調に気を遣っていたため、若い頃より酒量は大幅に減少していた。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見たちゃんこ鍋

    入門時にちゃんこで丼飯8杯・うどん大盛り2杯・お茶漬け2杯を食べて寝た翌朝、「空腹で眠れなかった」と語ったほどの並外れた大食漢であった。その大食漢ぶりによって入門から新弟子検査に至るまでの3週間で20kgの増量を果たした。本人はこの時の様子について「普通は相撲部屋に来たら、生活環境が変わったせいで痩せるものだけど、私の場合、まだ13歳ですから。周りの様子もよくわからなくて、たぶん神経を使わなかったんだろうと思いますね」と振り返っている。また高見山の著書によると両国中学時代の北の湖は1限目に部屋から渡された弁当を間食し、2限目以降は同級生から強引な形で次々と弁当を貰い受けて食べていたという。ただ、横綱になる頃には食事量は少なくなり、米をどんぶり3杯程度にとどめていた。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た小結

    1972年1月場所には新入幕 (18歳7ヶ月) を果たし、この時北の湖ははっきりと「史上最年少横綱を目指す」と宣言。この場所は5勝10敗と負け越して十両に陥落したがすぐに再入幕。1973年には19歳7ヶ月で小結に昇進。本人としては幕内上位から三役に上がった頃が一番楽しく相撲を取ることができたという。9月場所は小結で8勝7敗と勝ち越し、11月場所では関脇に昇進するが、9勝2敗で迎えた12日目に足首を骨折する重傷を負った。このまま休場を予想されたが千秋楽まで出場して10勝を挙げたことが自信となり、後年まで心の支えとなった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た大相撲力士大麻問題

    2008年9月8日、弟子の白露山の関与も明らかとなった大相撲力士大麻問題が世間の耳目を集める中で開催された日本相撲協会の臨時理事会において、理事長を辞任して理事 (大阪場所担当部長) に降格、後任理事長には武蔵川が選出された。2010年8月に後任の武蔵川が辞任した際の理事長選挙に再び立候補したものの、4票しか獲得できず、8票獲得した放駒に敗れた。2011年4月6日、大相撲八百長問題で弟子が関与したことを受けて、理事から役員待遇委員 (大阪場所担当部長代理) に降格。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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    北の湖敏満から見た突っ張り

    立合いでは手を付ける仕草を見せるだけで全く手を付けない。中腰で低い重心から立合いかちあげるか、右上手を引いて、相手を吹き飛ばすかのように土俵外へ出すのが代表的な取り口。左四つに組み止めての右上手投げには威力があった。両廻しを充分に引きつけ、腰をよく落としての怒涛の寄り、巨腹に乗せた吊りも得意とし、相撲用語で言う「糞袋が重い」(腰が重い)という長所も手伝って地力の強さは際立った。一方で巻き替えが上手く、取り組みで常に多用したため、評論家からは「横綱の相撲としてはいかがなものか」と批判された。しかし、安芸ノ海には「あの巻き替えがあるから勝てるのだ」と絶賛されていた。右四つになっても右腕を返して腰を下ろせば盤石で、こうなったときの識者からの評価は高かった。突っ張りもあり、関脇までは突き押し相撲が主体だったが、足首を怪我してからは四つ相撲に改めた。右四つの力士に強く、金城に対して29戦全勝と圧倒していたことに関して本人は「オレは右四つ大好きだから」と語ったことがある。巨体ながら非常にスピードがあり、器用さも兼ね備え、その相撲には独特の躍動感があった。がっぷりに弱い上に指が短く上手が切られやすいため胸が合うと上手も取れずもがいてそのまま土俵を割る相撲が多く、太寿山や隆の里などがっぷりの得意な力士は特にこの弱点に付け込むことで北の湖戦で活躍した。廻しが固い力士を相手にする時に指の短さの不利が現れたが、一枚廻しになると廻しを握り付けてそのまま吊り上げるなど逆に怪力ぶりを十二分に活かすことができた。1980年7月場所の頃にはそれまでの左四つ一辺倒からなまくら四つへと変化。立合いもかち上げから下から掬うものへと変わっていった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

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