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都城制から見た北京市
都城とは広義には城壁で囲まれた都市全般を指すが(→城郭都市)、狭義には「条坊制」に則って設計・建設された首都あるいは副都(陪都)で、「羅城」と呼ばれる城壁で市域を囲郭されたものをいう。条坊制は儒教の古典である『周礼』(しゅらい)考工記による都制の基準で、都城は9里の方形であること、南北9条、東西9坊の街路が走りその幅が車のわだちの9倍であること、中央に宮室を置きその左右に宗廟と社稷を配置すること、宮室の南には朝廷、北には市を配すること、などが記されている。『周礼』に記された都城の態様がいつ頃から具現化されたのかは明らかではないが、中国の歴史上、このような純然たる都城制が採用されたケースはほとんど見ることができない。秦漢の都はいまだ詳細茫漠たるものであるが、確認できる都城址としては三国時代に入ってから魏の主要都市鄴、その後の西晋朝洛陽では条坊制に則した都城が成立していたものと思われている。さらに時代を下り、北宋の東京開封城ではやや南北の中央線から時計回りに傾いた京城の中央に、ほぼ東西南北に隅角を揃えた皇城が、さらにその内側に宮城が置かれていたし、元の大都は都城の中央やや南寄りに宮城を配置しその周辺を皇城が囲んでいた。明清の北京城では京城は9つの門を持つ内城と拡張市域である外郭とに分かれ、内城中央に皇城、その中央に宮城を配するという形で、やはり周礼の都城とは若干違いがあった。ちなみに北京城の宮城は紫禁城といわれ現在北京の故宮博物院がその遺址である。(都城制 フレッシュアイペディアより)
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円瑛から見た北京
光緒三十四年、福建省泉州湧泉寺に住した。宣統元年、寧波接待寺住職に当選。寺には住まなかったが再興に尽力し。1912年(民国元年)、中国仏教総会参訳長に就任。民国六年、寧波仏教会会長に当選、僧民学校創設。民国九年、円瑛は北京に仏法を宣揚する。民国十一年、円瑛はシンガポール、ペナン島等の寺院で仏教を広めている。民国十二年、泉州に帰り、開元寺を修築する。民国十八年五月、中国仏教会会長に就任。民国十九年、寧波天童寺住職に当選。民国二十六年正月、福建省泉州湧泉寺住職に当選。1937年、円瑛は再び南洋に来た。シンガポール、クアラルンプール、ペナン島などで募金。民国二十八年、円瑛は上海に帰ってきた、円明講堂に住した。民国三十四年、円明楞嚴専宗学院創設。1949年、円瑛は上海で仏教を広めている。1951年、北京亞洲と太平洋区域和平会議にも出席していた。1953年、中国仏教協会第一任会長に当選。後、寧波天童寺にて示寂。享年76で入滅。法臘57。(円瑛 フレッシュアイペディアより)