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中華民国から見た北京市
冷戦下の1971年に、中ソ対立の文脈の中で、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国と、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国との間で政治的駆け引きが行われた結果、国際連合における「中国代表権」が、国際連合総会決議2758によって中華人民共和国に移され、中華民国は国連とその関連機関から脱退した。さらに、1972年にアメリカのリチャード・ニクソン大統領が北京を訪問し、中華人民共和国を承認する意向を見せると、アメリカの影響下にある多数の西側国家がこれに同調し、日本はモンゴル人民共和国・中華人民共和国を承認し中華民国と断交。その後1979年にアメリカが最終的に中華人民共和国を「中国の代表権を有する正統政府」として承認した。(中華民国 フレッシュアイペディアより)
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羅文藻から見た北京
1633年(崇禎3年)、ドミニコ会宣教師ホアン・モラレス(P.Juan B.Morales, 中国名:黎玉範)神父とフランシスコ会アントニオ・デ・サンタマリア・カバレロ(Antonio de Santa Maria Caballero, OFM, 1602-1669, 中国名:利安当)神父が福安で布教活動を行っていた時点で、羅文藻はすでに教会の求道者であった。1633年から1634年(18?から24歳)の間に、カバレロ神父は羅に洗礼を授けた。洗礼名の「グレゴリウス」その修道会が属する省名である「聖グレゴリウス」省を記念して命名された。その後羅はカバレロ神父に従って伝道師となり、南京での布教活動を目指すが失敗し、再び福建省に戻った。1636年(崇禎8年)に、カバレロ神父に従い台湾で布教活動に従事、1637年(崇禎10年)6月20日にはガスパル・アレンダ(P.Gaspar Alenda, 中国名:雅蘭達)とホアン・デ・サン・マルコス(P.Juan de San Marcos, 中国名:馬若望)の2人の神父に従って福建省から北京へ出発し、そこでイエズス会士アダム・シャール(中国名:湯若望)は彼等を朝鮮への宣教派遣を計画した。だが北京では迫害に遭遇し、3人は護送されて福安に戻り、寧徳で23日間拘留され、その後流刑によりマカオに流された。1639年(崇徳4年)には中国各省で迫害が発生、羅はカバレロ神父に従いフィリピンのマニラに赴いた。1650年にマニラでドミニコ会に入会する。その後、1652年のまでの間に中国とフィリピンを往来して教務を助け、並びにマニラの聖トマス学院で神学と哲学を学習する。1654年5月29日から6月30日までに相次いで剃髪式、侍者、副助祭と助祭叙階の秘跡を受け、同年7月4日にマニラのポブレーテ(Mons. Poblete)司教によって司祭に叙階される。翌年に福建省の故郷に戻った。(羅文藻 フレッシュアイペディアより)
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