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天一俊哉から見た北勝力英樹
中学校を卒業すると同時に北の湖部屋に入門し、1993年3月場所で初土俵を踏んだ。同期生には北勝力(現・谷川)、皇司(現・若藤)、琴春日、若兎馬、琉鵬、旭南海らがいる。また、初土俵は1場所違うが、大関武双山(現・藤島)からはよく目を掛けられているという。序ノ口デビューの翌5月場所から「天一」の四股名を名乗っているが、これは地元でお世話になった草相撲力士の力士の名前を貰ったものである。序二段に定着していた1995年5月場所では、13日目の7番相撲で同期生の栃不動に勝って7戦全勝としたが、3人で行われた優勝決定巴戦で、志賀(後の大関・栃東、現・玉ノ井)に敗れて序二段優勝はならなかった。しかし全勝という大健闘で、翌7月場所で初めて三段目に昇進。一度序二段に陥落したが、1996年3月場所以降は現在にいたるまで三段目以上の番付を保っている。(天一俊哉 フレッシュアイペディアより)
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北の富士勝昭から見た北勝力英樹
自身が「黄金の引き足」と言われたほど、引き技の切れが鋭かったことから、千代大海龍二・千代天山大八郎・北勝力英樹の引き技による自滅など、ふがいない相撲に対しては容赦ない叱責が飛ぶこともあった。千代天山が引き技で敗北した際、「げんこつをあげたくなるくらい悪い相撲」と酷評した。この時は、取組前まで千代天山の素質などを大いに褒めていたが、九重部屋及び八角部屋の(自身の孫弟子となる)力士に対するコメントは引き技に関するもの以外でも辛いことが多い。その一方で、解説者(それも優勝10回を誇る横綱経験者)であるにも関わらず、特定の力士(松鳳山、舛ノ山等)についてファンだと発言するなど、一方的な解説者目線に限定されない角度からの相撲の見方も好評を得ている。2010年より東京中日スポーツにて自伝「はやわざ御免」を連載している。(北の富士勝昭 フレッシュアイペディアより)
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八角部屋から見た北勝力英樹
1992年(平成4年)5月場所限りで引退し、以降は九重部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていた年寄・8代八角(元横綱・北勝海)が、1993年10月に北勝力ら内弟子4人を連れて分家独立する形で八角部屋を創設した。同時に、18代陣幕(元横綱・北の富士)・10代君ヶ濱(元関脇・北瀬海)・10代谷川(元幕内・白田山)・9代錦戸(元幕内・富士乃真)という当時の九重部屋に部屋付き親方として在籍していた年寄全員も移籍した。部屋の建物も、8代の師匠である北の富士がかつて利用していた旧・井筒部屋?九重部屋のものを譲り受けて一部改装した形となっている。(八角部屋 フレッシュアイペディアより)
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白鵬翔から見た北勝力英樹
2004年5月場所で新入幕となる。19歳1か月での新入幕は貴花田(後の横綱・貴乃花)、北の湖、花田(後の大関・貴ノ花)に次ぐ当時史上4位の若さであった(外国人力士としては史上1位の若さ)。その場所、千秋楽まで単独で優勝争いの先頭に立っていた北勝力を立合いの変化で破り、星1つの差で追っていた同じモンゴル出身の横綱・朝青龍の「援護射撃」を果たし、自らも12勝3敗の好成績で貴花田の18歳7か月に次ぐ19歳2か月の若さで初三賞(敢闘賞)を受賞した。新入幕での12勝は、15日制になってから歴代3位タイ。入幕を果たした際には「親方、一番強い人を倒したときの懸賞を持ってきます。待っていてください」と熊ケ谷親方と約束した。2004年11月場所11日目、白鵬は朝青龍を送り出しで破って初金星を獲得。その夜、この一番に掛かった懸賞を持って熊ケ谷親方の前にやってくると、「ここまで来られたのも親方のおかげです。受け取ってください」と差し出した。この懸賞は熊ケ谷親方の自宅の居間の一番見えるところに飾ってあるという。この場所は終盤まで優勝を争い、12勝3敗の好成績で初の殊勲賞を受賞した。(白鵬翔 フレッシュアイペディアより)
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式守勘太夫 (11代)から見た北勝力英樹
2009年1月場所の9日目、前頭7枚目北勝力?同9枚目土佐ノ海の取組中に北勝力の足に躓き、土俵下に転落した。すぐに土俵に戻り、軍配を挙げることはできたが、会場は爆笑に包まれた。これは、翌日のスポーツ紙に掲載されるほどの珍事であった。(式守勘太夫 (11代) フレッシュアイペディアより)