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津松阪港から見た北勢
古代には安濃郡の港として安濃津(あののつ、あのつ)、転訛して洞津(あなのつ、どうしん)と呼ばれた港で、平清盛がこの港から熊野三山への参拝のために出港したと『平家物語』に記述されるなど、平氏にとって重要な港であった。津市産品には平清盛の父で、伊勢平氏の勢力を拡大した平忠盛の生誕地との伝説があり、「平氏発祥の地」碑が立つ。また白砂青松の阿漕浦の名は京都でも知られていたようで、平安時代の和歌や室町時代のお伽草子に登場する。中世には三津七湊の1つとして日本を代表する港として見なされ、中国・明代の茅元儀が著した『武備志』の「日本考」にもと記され、筑前・博多津や薩摩・坊津と並ぶ日本三津として紹介された。これは、安濃津が伊勢平野の中央に位置し、伊勢参宮街道の中間点かつ内陸国の伊賀・大和・近江へ至る街道の起点であったことによる。中勢の米を伊勢神宮に献上する船の拠点や北勢の物資を輸送する寄港地として栄えた。しかし、1498年(明応7年)8月25日に発生した明応地震に伴う津波が港を直撃し、急速に衰退した。寂れ具合について、当地を通りかかった連歌師の宗長は4、5千の廃墟や堂塔の跡を残すのみの荒野となり、犬の姿や鳥の鳴き声すら稀であると手記に記録している。その地震以後の歴史は約200年間の空白になっている。こうして港が破壊されてしまったために当時の正確な港の位置は分かっておらず、現在の贄崎(にえざき)灯台沖説と阿漕塚説がある。(津松阪港 フレッシュアイペディアより)
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関西線 (名古屋地区)から見た北勢
愛知県から三重県の北勢・中勢地方を結ぶ。名古屋駅 - 四日市駅間では近畿日本鉄道(近鉄)の名古屋線と並走している。名古屋駅 - 河原田駅間は紀勢本線に付随する路線と化し、伊勢・南紀方面に向かう快速や特急が通過する一方で、河原田駅 - 亀山駅間は通勤・通学輸送に徹している。(関西線 (名古屋地区) フレッシュアイペディアより)
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関西本線から見た北勢
名古屋と大阪を三重県の北勢地方、伊賀地方、京都府南部、奈良県北部を経由して結んでいる。民間の鉄道会社である関西鉄道の路線として開業し、名古屋と奈良・大阪を最短距離で結ぶ鉄道路線として国鉄と乗客を奪い合った歴史を持ち、路線名もこの社名に由来する。国有化後は1970年代まで全線を直通する列車が運転されていたが、並行する東海道本線や東海道新幹線の整備、近鉄特急の台頭、名阪国道の開通によるモータリーゼーションの普及などにより、名阪間の輸送からは撤退した。現在では亀山駅、加茂駅を境界として運転系統が3区間に分割されており、境界となる駅を跨いで運転される旅客営業列車は、急行「かすが」の廃止以降は一切運転されていない。(関西本線 フレッシュアイペディアより)