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パファー (潜水艦)から見た久米島
12月16日、パファーは6回目の哨戒で南西諸島方面に向かった。1945年1月4日、パファーはの与論島近海で2隻の輸送船団を発見し、三度にわたって魚雷を1本ずつ発射、500トン級を撃沈した。1月10日早朝には、の久米島の西方で輸送船団を発見し、魚雷を3本発射して全ての命中を確認。次いで魚雷を4本発射し、1本の命中と判断、さらに魚雷を4本発射して3本を2隻の「吹雪型駆逐艦」に命中させて1隻撃沈、1隻撃破と判断。午後にも攻撃を行い、魚雷を6本発射して1本を輸送船に命中させ撃沈したと判断された。一連の攻撃で、第42号海防艦を轟沈させ、第30号海防艦の艦首にも魚雷を命中させて大破させた。翌1月11日にもの地点で海防艦を発見し、魚雷を2本発射したが命中しなかった。なお、この哨戒では沖縄本島周辺のレーダー調査も行われた。1月17日、パファーは30日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投した。(パファー (潜水艦) フレッシュアイペディアより)
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十・十空襲から見た久米島
本島以外の沖縄諸島各地にも攻撃は向けられた。慶良間諸島には8回にわたり延べ60機(日本側記録)が飛来し、主に漁船を狙った機銃掃射を行った。宮古島では午前と午後に1回ずつ各16機(日本側記録)による空襲があり、九九式襲撃機3機など陸軍機9機破壊、陸軍徴用輸送船「廣田丸」(栃木汽船:2211総トン)撃沈、民家13軒半焼などの被害が出た。石垣島には8機が早朝に飛来した。久米島西方で沈んだ陸軍徴用輸送船「江龍丸」(名村汽船:2170総トン)は、第32軍の記録によると空襲および潜水艦の攻撃で沈没となっているが、アメリカ側の公式記録では空母機の戦果となっている。大東島地区には午後になって延べ8機(日本側記録)が飛来し、飛行場や海軍船を銃爆撃した。大東島へ航行中の海軍徴用小型船2隻が沈んだほか、沖大東島付近で特設掃海艇「第一拓南丸」が炎上擱座している。(十・十空襲 フレッシュアイペディアより)
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平成5年台風第13号から見た久米島
8月30日に沖ノ鳥島近海で発生した台風第13号は西寄りに進みながら発達し、9月1日には進路を北寄りに変え、9月2日には中心気圧925hPa、最大風速50m/sの大型で非常に強い勢力となって北上を続けた。最大勢力で台風が直撃した久米島では最大瞬間風速、53.9m/s、最大風速36.5m/sを観測したが、その瞬間に風速計が破壊され、非公式にはさらに強い強風が観測されている(自衛隊の風速計では100m/sを超えていたとされる)。台風は勢力を保ちつつ九州に接近し、翌3日16時前に中心気圧930hPa、最大風速50m/sという記録的な勢力で薩摩半島南部に上陸した。台風の進路がやや東に寄ったため九州の大部分は可航半円に入り、台風の勢力程は強い強風は吹かなかったが、それでも最大瞬間風速50m/s以上を観測している。また、台風の上陸地点に近かった鹿児島県枕崎市では939.7hPaの最低海面気圧を観測した。鹿児島県では集中豪雨により地盤が弱っているところに台風の大雨が降ったので土砂災害により33名もの犠牲者が出た。台風は上陸後は急速に勢力を弱めながら、四国、中国地方を通って日本海に出、4日21時に温帯低気圧に変わった。(平成5年台風第13号 フレッシュアイペディアより)
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小牧実繁から見た久米島
1923年(大正12年)9月、母校である第三高等学校地理科教師を委嘱され(1926年(大正15年)4月退任)、翌年11月5日笠島清子と結婚する。1925年(大正14年)3月31日京都帝国大学文学部助手に任じられ、滋賀県野洲郡史編纂のため郡内調査を行う。また、大学考古学講座教授濱田耕作に従い、後に備中津雲貝塚発掘等を手掛ける島田貞彦・貝塚茂樹等と共に長崎県有喜貝塚発掘調査に参加する。京都府乙訓郡史編纂のため郡内を調査する。1926年(大正15年)4月10日講師に昇任、7月濱田耕作に従い沖縄県久米島の調査・城嶽貝塚発掘調査を行う。1927年(昭和2年)4月濱田耕作に従い満州国関東州における先史時代遺跡発掘作業に参加した。(小牧実繁 フレッシュアイペディアより)