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日活から見た吉永小百合
その為に新人のニューフェイスなどを登用せざるを得なくなり、宍戸錠、名和宏、長門裕之らを起用。やがて石原慎太郎原作の「太陽族」映画が当たると、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、待田京介、赤木圭一郎、二谷英明、岡田真澄、川地民夫、和田浩治、葉山良二、中原早苗、笹森礼子、清水まゆみ、小高雄二、青山恭二、筑波久子らを起用した若者向けの低予算のアクション映画中心の会社に路線変更した。また劇団民藝と提携し俳優を確保した。興行収益が好調な上に事業多角化を推進したため、業績は堅調。これによって石原、小林、赤木、和田による「日活ダイヤモンドライン」と中原、芦川、浅丘、笹森、清水、吉永小百合による「日活パールライン」を看板に掲げた。(日活 フレッシュアイペディアより)
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ラブ・ストーリーを君にから見た吉永小百合
秋本鉄次は「それにしても"白血病"とはずいぶん古い引き出しを持ち出して来たものだ。アイドルを難しくこね回すよりも、ストーリーはなるべくシンプルに、古典的にした方がいいのは定石とはいえ、古色蒼然は否めない。白血病に限らず、難病物は、以前ほど受けなくなった。邦画では1984年の『チーちゃんごめんね』あたりが最後だろう。吉永小百合と浜田光夫の純愛コンビで紅涙を絞った『愛と死をみつめて』の昔ではないのだ。映画の希求力は色褪せており、現実の夏目雅子の死のインパクトには遠く及ばない。ひょっとしたら、"難病物"というのは最も映画化に不向きな題材とすら思う。難病物の主人公が大抵女性、しかも美しいヒロインをことさら病魔で彩ることで悲劇性を煽る発想もわざとらしくて嫌いだった。それが幼気な少女であればあるほど、少女嫌いのぼくは鼻白んで来た。ところが『ラブ・ストーリーを君に』を見終わったあとは、何ともすがすがしい気分になった。この"重ハンデ"の奇跡の如く克服は一体なぜだろう。まず難病物のルーティンの克服が挙げられる。親族や関係者たちの必要以上の泣き、延々と続く病床シーンというパターンをほとんど排している。いわゆる"クオリティ・オブ・ライフ"。死が遠くない将来に確実に待っている宿命の人間にとっての残り時間の生き甲斐を、これほど堂々と打ち出したのは初めてだろう。初の本格的"ホスピス"映画とでもいうべきか。さて肝心のヒロインが脆弱では、この毅然たる作品は腰砕けになってしまうが、その点、後藤久美子は、伝聞する"生意気ぶり"も相乗して、実に前のめりに胸を張った少女を好演する。いたいけな難病少女ではなく、"死ぬことなんかもう恐くない"と虚勢を張るにふさわしい力強さを感じる。小泉今日子に匹敵するほどハキハキとした台詞のキレ、鼻からタラリと血を流してもルックスの美が崩れないというのも大物感たっぷりで、世のゴクミストを酔わせているのも納得がいく。命ギリギリまで、諦念を秘めた奔放さで動き回るヒロインを、ドーンと受け止めるのが仲村トオル。『ビー・バップ・ハイスクール』で暴れるのと勝手が違って、もっぱら受けの芝居だが、これがとてもいい。10歳近くも年下の少女には恋愛感情などあるはずもなく、"好意"ではなく"厚意"があるだけだが、時折り、不釣り合いで、ギクシャクしたやりとりになるのが新鮮な緊張感を生む。これまでの難病物は夫婦か恋人同士という強い絆無しでは成立しないかのようだったが、死を避けられない人間に対して、第三者が関わり合える限界ギリギリまで映画は描く。"ラブ"をではなく、"ラブ・ストーリー"を君にというタイトルはなかなか意味深と言える。クライマックスは商業映画の必須として"泣かせ"も用意してあるが、それまでの抑制が効いているから、自然と涙腺が刺激されてしまう。この辺の呼吸はレトリックだけの小僧監督には出来ない。これまで、難病物は実話の映画化と相場が決まっていた。現実の悲劇とのオーバーラップ効果を狙うわけだが、これが案外落し穴となるケースが多かった。本作は全くのフィクション、それも外国の翻案だけに、いくらでも自由な発想で構築できたのだと思う。難病への対処法が、投薬と化学療法だけが能ではないように、難病物もまた、涙と泣きの病床描写だけでは効果がないことに、堂々たる自信でメスを入れた本作は、見事なプロの凱歌だと思う」などと論じた。(ラブ・ストーリーを君に フレッシュアイペディアより)