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  • 馬飼野康二

    馬飼野康二から見た吉田拓郎吉田拓郎

    「ハート通信」(作曲:吉田拓郎馬飼野康二 フレッシュアイペディアより)

  • 川村ゆうこ

    川村ゆうこから見た吉田拓郎吉田拓郎

    翌1976年、吉田拓郎プロデュースによる『風になりたい』でデビュー。当時のキャッチ・フレーズは「5人目のフォーライフ」。川村ゆうこ フレッシュアイペディアより)

  • 原田真二

    原田真二から見た吉田拓郎吉田拓郎

    広島舟入高等学校2年在学中に、フォーライフ・レコード新人オーディションに応募。吉田拓郎に見出され3,000曲の中から選ばれた。1977年4月、青山学院大学経済学部第二部経済学科入学と同時に上京。18歳だった同年10月25日に、拓郎プロデュースにより「てぃーんず ぶるーす」でデビューした。原田真二 フレッシュアイペディアより)

  • シンガーソングライター

    シンガーソングライターから見た吉田拓郎吉田拓郎

    歌謡曲には古くからレコード会社とプロダクションの主導により職業作家の作った楽曲を歌手が歌うという厳格な分業システムがあったが、彼ら歌手にも音楽的才能があるため作曲能力があり、知名度も相まって自作曲をリリースすることが出来た。加山のケースでいえば自身の主演作『ハワイの若大将』の劇中歌に自作曲が採用されてヒットした後、自作曲を多く歌うようになった。しかし加山は作曲のみ自分で行い、作詞は職業作詞家によるものだったため、そのほとんどがラブソングであり歌謡曲と変わりがない。後に現れた「フォークシンガー」や「シンガーソングライター」が、反体制歌や非歌謡曲を志向した点や、"自分たちの言葉で歌にしていく"と、自己表現した歌詞にも特徴があった点で異なる。また音楽的ベースも加山はグループ・サウンズであり、ロック寄りで、これも後の「シンガーソングライター」がボブ・ディランやPP&Mなど、アメリカのフォークソングをベースにしたものとは異なる。加山自身「俺は俳優。歌は趣味的なもの」と話しており、この点からも、その後の「シンガーソングライター」と系統的に繋がってはいないといえる。荒木一郎は「当時では、俺だけが純粋に作詞・作曲で、しかも商業的でなかった。そのまんまだったんだ」と述べている。岡林信康や吉田拓郎、小室等、井上陽水らは、加山らを先達とは考えてはいない。小室等は「平尾さんとかそういうとか人たちは歌謡曲に積極的に寄りそう形で出てきたシンガーソングライターだったけど、ぼくらはその糸を切ってある。彼らとは違う」「あの当時のフォークソングをはじめた連中というのは、アンチ商業主義だった」等と話している。1960年代後半から現れたフォーク系シンガーソングライターの多くは、既存の歌謡曲とは、ほぼ無縁の活動から誕生した人たちである。シンガーソングライター フレッシュアイペディアより)

  • 森進一

    森進一から見た吉田拓郎吉田拓郎

    1974年(昭和49年)にはフォークソング全盛期の黄金コンビ、岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲の「襟裳岬」を発表。同曲で第16回日本レコード大賞、第5回日本歌謡大賞など多くの音楽賞を獲得し、「第25回NHK紅白歌合戦」で自身初の大トリを務めた。この「襟裳岬」との出会い以降彼の曲の世界は転換期を迎え、通常の演歌歌手には無い趣向を持ち始める。森進一 フレッシュアイペディアより)

  • エレックレコード

    エレックレコードから見た吉田拓郎吉田拓郎

    1969年に設立され、1970年、広島フォーク村の吉田拓郎をスカウトし、1971年6月リリースされた『よしだたくろう オン・ステージ ともだち』がヒットし会社が軌道に乗る。その後も泉谷しげる、佐藤公彦ら人気ミュージシャンのレコードをリリースし急成長。設立時は新宿の喫茶店の2階、僅か15坪の事務所だったが、3年で年商20億、新宿管内では伊勢丹に次ぐ高額納税企業になった。7階建ての本社ビルを建設し、最盛期には社員100人を越えた。しかし1972年以降、吉田拓郎や泉谷しげるをはじめとする看板アーティストの移籍、独立が相次ぎ、1976年7月15日、1300万円の不渡りを出し倒産した。負債総額12億円。エレックレコードの社員であった門谷憲二は倒産の原因を放漫経営と分析している。エレックレコード フレッシュアイペディアより)

  • 井上陽水

    井上陽水から見た吉田拓郎吉田拓郎

    1971年、ポリドール・レコードのディレクター多賀英典に誘われて移籍し、初のアルバム『断絶』のレコーディングを始める。このアルバムの製作開始に合わせて名前を変えることになり、マネジメントの指揮を執った奥田義行が本名を聞くと「井上アキミ」というので、どんな字かと思ったら「陽水-ようすい」と書くという。奥田は吉田拓郎を意識し、「拓郎がその二文字で若者にインパクトを与えている。だったら下の名前の「陽水」の2文字で対抗、強調していこう」と戦略を立てた。井上陽水 フレッシュアイペディアより)

  • 石野真子

    石野真子から見た吉田拓郎吉田拓郎

    その後、約1年間をかけてデビューへの準備を行う。父親の希望もあってデビュー曲が出来上がるまでは芦屋の実家で歌のレッスンに励み、高校2年の夏休み1ヶ月間は東京へ出向いて日本テレビ音楽学院に通った。デビュー曲の作曲を担当する吉田拓郎と東京六本木のバーで初対面する。この時の「石野真子」の印象を、吉田は後の著書の中で「本当にこの人デビューするんですか?と思うほど太っていたが、不思議な芸能界は3ヶ月後(レコーディングの時)には見違えるほど変身させて連れて来た」、と記している。石野真子 フレッシュアイペディアより)

  • 松本 隆

    松本隆から見た吉田拓郎吉田拓郎

    アゲイン (1978年8月25日、作曲:吉田拓郎松本隆 フレッシュアイペディアより)

  • 夜のヒットスタジオ

    夜のヒットスタジオから見た吉田拓郎吉田拓郎

    この時期には、1977年に五輪真弓(10月)、中島みゆき・アリス(12月)、1979年には浜田省吾(8月)、1980年には吉田拓郎・YMO(6月)、井上陽水(12月)、1983年には長渕剛(5月)などこれまでテレビ出演に消極的姿勢を採ってきたフォーク系・ニューミュージック系の一流ミュージシャンが次々と初出演した。また、松坂慶子、小林旭、松田優作、三浦友和、竹下景子、舘ひろし、田中裕子、水谷豊など多くの人気俳優も頻繁に新譜発売時に歌手として出演し、前橋汀子、中村紘子などの海外でも活躍する歌手以外のアーティストも出演。1980年代に入ってからはフランク・シナトラ、シーナ・イーストン、フリオ・イグレシアス、ポリス、オリビア・ニュートンジョン、ジョン・デンバー、U2などの海外アーティストを登場させる一方で、戸川純、シーナ&ザ・ロケッツ、VOW WOW、LOUDNESS、THE MODS、大沢誉志幸といった異色・新手のバンド・ミュージシャンに対しても門戸を広げるなど、「広いジャンルの歌を楽しめる番組」「普段テレビで見ることができないアーティストを見られる番組」という番組イメージを確立していった。夜のヒットスタジオ フレッシュアイペディアより)

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