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吉田拓郎から見た浜田省吾
この後、1994年の長崎・普賢岳噴火災害救済コンサート(3月13日、長崎市公会堂)、「日本をすくえ'94」(8月16日、日本武道館)、1996年の阪神・淡路大震災救済支援コンサート(9月14、15日、神戸ワールド記念ホール)と、三度のチャリティコンサートを拓郎と小田、泉谷しげるで企画運営。復興支援を目的とした「スーパーバンド」の発案は拓郎という。長崎・普賢岳噴火災害救済コンサートは、ギター・泉谷、ベース・拓郎、キーボード・小田、ツインドラム・浜田省吾、大友康平が基本メンバーのスーパー・バンドを結成し、井上陽水や忌野清志郎、さだまさし、南こうせつなどのゲストミュージシャンの曲を演奏するというものだったが、即席バンドで短期間の合宿ではなかなか上達せず、どんどんコードが簡略化されて、さらに拓郎が「親しくない奴と2日以上いられない」とダダをこねたりでピンチを迎えた。しかし、なんでも弾ける坂崎幸之助がこのピンチを救い、無事開催できたという。(吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)
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吉田拓郎から見た小椋佳
1972年7月21日にリリースしたLPレコード(アルバム)『元気です。』は、フォーク系、ニューミュージック系シンガーとして、またシンガーソングライターとしてオリコン史上初の1位獲得アルバムである。それまでの1位獲得アルバムは、演歌か女性アイドルか、洋楽に限られていて、演歌以外の男性歌手としても初の1位獲得であった。アルバムが売れない時代に、1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた。アルバムがシングルレコードの寄せ集めではなく、アルバムとして一つの主張をもった作品として考えられるようになるのは、拓郎や小椋佳、井上陽水らフォークシンガーの良質なアルバムの制作と大ヒットからである。(吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)
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吉田拓郎から見た布施明
森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけに渡辺晋は、拓郎の楽曲の実力を買って、キャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した。渡辺プロダクションは、これを機に布施明へ小椋佳の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子へ荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行った。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因のひとつでもあるが、この後阿久悠や筒美京平のように歌謡曲側の作家が、それぞれ桑名正博、Charのようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった。またCMソング作家だった小林亜星が作曲した「北の宿から」が1976年、第18回日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークがアンダーグラウンドから脱し市民権を得たともいえる。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた。「襟裳岬」は両者が邂逅した記念碑的作品であった。拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、原田真二をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献。(吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)
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吉田拓郎から見た小林亜星
小林亜星は、阿久悠の著書内の「歌謡曲のことば」というテーマ、作曲家から客観的に見た歌詞のルール、歌詞とメロディーの結びつき、という考察に於いて、「ニューミュージックの隆盛期以来、日本語の扱いが随分変わりました。これは日本歌謡史上の大革命だったんです。吉田拓郎や井上陽水がやった革命なんです。それまでの日本の歌は、一つのオタマジャクシに一つの日本語の発音がはめ込まれていた。日本語って随分不便な言葉だなあ、と吉田拓郎あたりが考えて、一つのオタマジャクシで「私は」と言ってしまった。こんな歌い方はそれまで日本にありませんでした。日本人の感覚にないんですね、これがニューミュージックです。ニューミュージック以後、こんなふうにして言葉の扱いが変わってきたんですね。日本語でロックやポップスを歌ってもかっこよくなりました。ですから拓郎さんなんかの努力で、歌謡曲が非常にカッコよくなりました。ニューミュージック革命以後、日本語の発音は英語風になっているんですよ」と論じている。(吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)
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吉田拓郎から見た竹内まりや
ソノシート制作のきっかけとなった1970年6月の広島フォーク村アルバム発売記念コンサートで拓郎を初めて見たという「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「しゃべりが面白く『歌えて、しゃべりも出来る』というスタイルは拓郎が最初じゃないかな」と述べている。田家秀樹は「それまではレコード会社専属の作詞家、作曲家、歌手が音楽を手掛けるのが主流だったが、ラジオ番組がフォークシンガーたちに曲を発表する場所を提供したことで、吉田拓郎らがラジオで一時代を築いた結果、話が面白くて、曲が魅力的であれば誰でも世の中で注目を集められるようになった」と論じている。竹内まりやは「拓郎の話が面白くてラジオをずっと聞いていた。それまでラジオで話が面白い人はいなかった。そこもセンセーショナルだった」などと話している。拓郎は1970年のデビューシングル「イメージの詩/マークII」(両A面)から、ラジオの深夜放送では曲がよくかかっていた。しかし当時のテレビの歌番組は、深夜ラジオ出のお里が知れない新鋭を敬遠するようなムードがあり、テレビサイドから出演依頼の声がかかることはなかった。有名なテレビ出演の拒否は、2年後に「旅の宿」が大ヒットしたことで、それを無視できなくなったテレビサイドからの出演依頼に対する反撥であったため、それまでの拓郎は、コアなモノ好きの若者の支持を集める「深夜世界のカルト・スター」だったのである。(吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)
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