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  • 吉田拓郎

    吉田拓郎から見た内田裕也

    その"シンガー・ソングライター"という言葉が日本の音楽界に大きくクローズアップされた1972年、内田裕也が「いま、シンガー=ソングライターっていわれてる連中がやってることを見てると、昔、ロカビリーがだんだん歌謡曲になった、井上ひろしの『雨に咲く花』とかと同じような道を歩んでいる。だから、あんなの長続きしない」などと発言。これを受けニューミュージック・マガジン誌が1972年6月号で、中村とうよう司会、内田と拓郎とはっぴいえんどのマネージャー・石浦信三の3人による論戦を企画。しかし内田が都合で欠席したため論戦にはならなかった事があった。吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)

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    吉田拓郎から見た森山良子森山 良子

    この年には他人への提供曲に多くのヒット曲を残した。先述のようにかまやつひろしのアルバム『我が良き友よ』のタイトル曲はオリコン1位を記録し、他に「歌ってよ夕陽の歌を」(森山良子)、「いつか街で会ったなら」(中村雅俊)、「あゝ青春」(トランザム)、「風の街」(山田パンダ)、「明日の前に」(堺正章)、「寺内貫太郎一家2」(1974年、TBS)の挿入歌「ひとりだち」(白鳥哲)、「両国橋」(松平純子)、「今夜はごきげんな夜」(ケイ・アンナ)、フジカラーのCMソング『私は小鳥』(山口百恵歌、ソノシート、非売品)などを手掛ける。吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)

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    吉田拓郎から見た小柳ルミ子

    その他、楽曲提供は小柳ルミ子「赤い燈台」、シュリークス「クジラのスーさん空をゆく」など。また杉田二郎が「今日までそして明日から」をカバーした。吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)

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    吉田拓郎から見たオフコース

    現在まで脈々と続く "日本のビートルズ(そっくりさん)・バンド" の草分け、ザ・バッド・ボーイズにデビューシングル曲「ビートルズが教えてくれた」他1曲を提供。メンバーの一人・清水仁が後にオフコースに参加。吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)

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    吉田拓郎から見た中村とうよう

    中国大会で課題曲だった「花はどこへ行った」をブルースアレンジで演奏し、2位に終わったものの中村とうようから特別賞が与えられ決勝大会に進出した。吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)

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    吉田拓郎から見た堺正章堺 正章

    この年には他人への提供曲に多くのヒット曲を残した。先述のようにかまやつひろしのアルバム『我が良き友よ』のタイトル曲はオリコン1位を記録し、他に「歌ってよ夕陽の歌を」(森山良子)、「いつか街で会ったなら」(中村雅俊)、「あゝ青春」(トランザム)、「風の街」(山田パンダ)、「明日の前に」(堺正章)、「寺内貫太郎一家2」(1974年、TBS)の挿入歌「ひとりだち」(白鳥哲)、「両国橋」(松平純子)、「今夜はごきげんな夜」(ケイ・アンナ)、フジカラーのCMソング『私は小鳥』(山口百恵歌、ソノシート、非売品)などを手掛ける。吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)

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    吉田拓郎から見た小田和正

    小田和正は1972年、拓郎が「パックインミュージック」でかけたチューリップのデビュー曲「魔法の黄色い靴」に大きな衝撃を受けたと話している。吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)

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    吉田拓郎から見た布施明

    森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけに渡辺晋は、拓郎の楽曲の実力を買って、キャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した。渡辺プロダクションは、これを機に布施明へ小椋桂の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子へ荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行った。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因のひとつでもあるがこの後、阿久悠や筒美京平のように歌謡曲側の作家が、それぞれ桑名正博、Charのようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった。またCMソング作家だった小林亜星が作曲した「北の宿から」が1976年、第18回日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークがアンダーグラウンドから脱し市民権を得たともいえる。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた。拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、原田真二をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献。歌謡曲とフォーク/ロックの融合という難事業を、ほぼ一人でやってのけた。吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)

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    吉田拓郎から見た泉麻人

    当時拓郎の歌は"私小説的""青春歌謡"などと揶揄もされたが泉麻人は『自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいいんだ、と、拓郎の出現によって、レコードを聴くばかりでなく、オリジナルの曲を作って唄ってみたい、と思った人は僕らの世代に多いはず。そういう身近さが吉田拓郎の何よりの魅力だった』と述べている。吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)

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    吉田拓郎から見た小林亜星小林 亜星

    小林亜星は、阿久悠の著書内の「歌謡曲のことば」というテーマ、作曲家から客観的に見た歌詞のルール、歌詞とメロディーの結びつき、という考察に於いて、「ニューミュージックの隆盛期以来、日本語の扱いが随分変わりました。これは日本歌謡史上の大革命だったんです。吉田拓郎や井上陽水がやった革命なんです。それまでの日本の歌は、一つのオタマジャクシに一つの日本語の発音がはめ込まれていた。日本語って随分不便な言葉だなあ、と吉田拓郎あたりが考えて、一つのオタマジャクシで「私は」と言ってしまった。こんな歌い方はそれまで日本にありませんでした。日本人の感覚にないんですね、これがニューミュージックです。ニューミュージック以後、こんなふうにして言葉の扱いが変わってきたんですね。日本語でロックやポップスを歌ってもかっこよくなりました。ですから拓郎さんなんかの努力で、歌謡曲が非常にカッコよくなりました。ニューミュージック革命以後、日本語の発音は英語風になっているんですよ」と論じている。吉田拓郎 フレッシュアイペディアより)

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