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金煥泰から見た同志社大学
東京の学校に通うつもりであったが、途中京都に立ち寄ったところ、郷里の友人に会い、彼らに引き止められる形で同志社大学予科に籍を置くことになる。新入生歓迎会で鄭芝溶と知り合い、親しくなった。鄭の詩に感銘し、1938年には『鄭芝溶論』を執筆している。大学2年目の頃、下宿先の娘と恋仲になる。二人の間には子供が生まれるが、相手の女性はまもなく死んでしまった。1931年、同志社大学予科を卒業すると、九州帝国大学法文学部英文学科に入学する。金はここで、文学を学ぶことを楽しみ、多くの作品を渉猟する。卒業論文には、マシュー・アーノルドとウォルター・ペイターを中心とした文学論を執筆し、これは、金の批評文学の骨格となった。(金煥泰 フレッシュアイペディアより)
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永井隆雄 (コンサルタント)から見た同志社大学
現在の北村家当主(平成10年頃まで)の次女、正子は、隆雄と同級生、中学時代、密かに相思相愛だったが、大淀中学から、正子は大阪府立北野高等学校・北野高校に進み、同志社大学英文学科に推薦で入学した。正子は、この高校(北野)と大学(同志社英文)に、中学時代の成績からすれば北野、英語が得意だから、他の高校に進んでも同志社英文ということで永井がやってくるのだろうと予想したが、いずれも外れた。(永井隆雄 (コンサルタント) フレッシュアイペディアより)
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関西学生野球連盟 (終戦前)から見た同志社大学
1931年に当連盟の有力校であった関西学院と神戸商業大学が前年の1930年に結成された関西四大学野球連盟(関西大学、京都帝国大学、同志社大学、立命館大学)へ加盟し、同年秋から関西六校野球連盟が発足。(神戸商業大学は移籍。関西学院は1933年中までは当連盟との重複加盟。)翌年3月の関西学院の旧制大学昇格を待ち関西六大学野球連盟と改称した。(関西学生野球連盟 (終戦前) フレッシュアイペディアより)