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シドニー・ギューリックから見た同志社大学
同年9月15日にニューヨークを出発し、1888年(明治21年)から1894年(明治27年)まで宣教師として熊本に派遣され、伝道の傍ら熊本英学校にて英語の教鞭を執った。1896年から1897年まで一時休暇帰米ののち1897年(明治30年)に再来日し、1904年(明治37年)まで四国の松山高等女学校で英語教師として教壇に立った。この間旧制中学や師範学校の教師らとともに校外学習の場を設け、家庭の事情や経済的理由で上級学校へ進めない子弟を対象に英語、初歩の天文学、社会学、進化論なども教えた。その後アメリカ、ドイツ各地を2カ年遊学し、1906年(明治39年)日本に帰任。以後7年間京都に居住し、同志社神学校神学講座教授(1906-1912)、同志社大学神学部教授(1912-1913)、京都帝国大学基督教講義講師(1907-1913)の職を勤めた。(シドニー・ギューリック フレッシュアイペディアより)
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呉相淳から見た同志社大学
1912年、渡日した呉は、京都の同志社大学宗教哲学科に入学する。1918年、同志社大学を卒業すると帰国し、実家にしばらく戻ったものの、ソウル市鍾路区鍾路5街にあった亡くなった母の実家に身を寄せることになる。こうして呉の詩作はさすらいと共に始まった。1920年、金億、南宮璧、廉想渉、黄錫禹らと『廃墟』の同人となり、同誌に「時代苦とその犠牲()」(評論)で文壇に登場した。そこに込められたのは、3・1独立運動の失敗による植民地という現実に打ちひしがれる朝鮮人に、犠牲的精神を持って克服し、新しい時代の創造を建設することを呼びかけるものであったが、克服という努力よりも運命というむなしさが感じられる。呉は詩作の中で「虚無」を深化させていく。(呉相淳 フレッシュアイペディアより)
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阿部賢一から見た同志社大学
1903年(明治36年)から1908年(明治41年)までの5年間を同志社普通学校で学ぶ。同窓には湯浅八郎がいた。同志社を出た後早稲田大学大学部政治経済学科に進学。1912年(明治45年)同学科を首席卒業。同年設立された同志社大学に講師として赴任する。10年間同志社大学で講師、教授を務めた後請われて早稲田大学に移籍。1935年(昭和10年)まで政治経済学部で教鞭をとる。その一方でジャーナリストとしても活躍。岳父徳富蘇峰が主宰する『国民新聞』記者、『東京日日新聞』論説委員、主筆などを歴任した。戦後早稲田大学に復帰。1951年(昭和26年)から1961年(昭和36年)まで講師、常任理事、評議員会会長。1966年(昭和41年)5月には総長代行として再び復帰、同年9月総長就任。大学紛争の解決に粉骨砕身し、機動隊の手に委ねることなく封鎖解除を成し遂げることに成功した。1971年(昭和46年)、勲一等瑞宝章受章。(阿部賢一 フレッシュアイペディアより)